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夢は座席で安楽死。

観る→考える→想う→書く。

【舞台】ぼくらが非情の大河をくだる時 -新宿薔薇戦争-

ぼくらが非情の大河をくだる時 -新宿薔薇戦争-

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@本多劇場
2017年3月16日~20日

http://bokuraga.com/


ボケっとしていたらいつの間にか決まっていたリーディング。
元からリーディングが少し苦手なのと、どっちのチームを観るか……と悩んでいたのに、気が付いたら両チーム観劇していた。
下北沢の居心地のよさも、本多劇場の居心地のよさも最高である。

感想ぱらぱら

以降、大量に同役キャストやチームでの比較を用いるけれど優劣をつける意図はなく、「こんなに異なっていたのに面白い」という表現であるのと、あとは例えで用いる言葉は主観のため、通って観ていた人からしたら「そりゃあ違くねえか」みたいな事はめちゃくちゃあるかと思うのでご了承を。


1970年代に生まれた今回のこの作品、公式サイトと当パンを後から読む怠惰な私はそもそも「学生運動後の話」という事にすら気がつかないまま千秋楽を迎えてしまった。
けれど逆にそのお陰で深いことを考えない、まっさらな所に「感情」という情報だけが流れ込んで来たのでとても楽しめたという謎のラッキーを引き起こしてしまった。
何故なら私は学生運動の時代に生きていない。なので「学生運動」という情報を先に仕入れていたら、きっと身構えてしまう。だって、「1970年代=学生運動」という事すらピンと来ないくらい、自分には想像が出来ない世界だからだ。

A・B両チームに共通して感じた事は「かなり綺麗に仕上がってる」という事だった。これは中屋敷さんの特性でもあるかなと思うし、全体的な今回の仕上がりかなともいう所なのだけれど。
両チーム観た友人達とあーだこーだ話していて、全員口を揃えて「公衆便所ってあんなに綺麗じゃないよね」という話題が出る。
それは美術とかビジュアルの面ではなくて、メンタル的な問題。学生運動、かつ新宿薔薇戦争となると大体靖国通りとか二丁目あの辺りの、今でも床がビチョビチョしてそうな、靴を履いていても足を踏み入れるのを躊躇う便所を私たちは想像する。
それに対して登場人物の「便所」に対する距離感が、あまり汚物感を感じなかったというか「表参道とかのいつでも綺麗でウォシュレットとかついてそうなトイレっぽい」という結論に至った。
そしてこれが悪いという訳ではなくて、「面白い」のだ。結局この戯曲を上演している今は2017年で、この戯曲が書かれた当時からはおおよそ50年経っている。
たった50年だ、けれどもこんなに価値観が違えば印象も変わる。「今時の1970年」という、完全に何かが矛盾している面白さがあった。
後はただ中屋敷さんが綺麗なものが好きな事を良く知ってるので、物理的な便所の汚さよりも、人間の心とか感情の汚さを描きたかったからあえてその辺りは綺麗にしたのかなとも思ってみたりなんだり。
あの公衆便所、虫1匹も出なさそうだったし、床でごろごろ寝れちゃいそうだった。そして原田さんの美術は相変わらず物凄く素敵な世界観を表現していて、あのままミニチュアにして家に飾りたいくらいだった。


話が戻る。
この作品を読み解くにあたって、社会情勢とか演劇論とか、そういう方面から学術的に論ずる事はいくらでも出来るけれど、私はそれをしたくなかったし、する気もなかった。
中屋敷さんが与えてくれた「1970年代の作品を今上演する事・観劇する事」というフック、そしてそれを「現代を生きる俳優達がWキャストで演じる事」で受け取る何か。その”何か”が一番大事なんじゃないかなと思っている。
個人的には作品を観て「同じ戯曲を別の人間が演じるとこんなにも可能性が広がる」という部分に面白さを見出せたのがとてもよかったし、「1970年代の作品を現代で上演するとこうなる」というギャップ…とも違うのだけれど、それこそ前述の便所とかもそうなのだけれど、ストーリー展開とか言葉の意味とかの「形に当てはまるもの」は二の次でよくて、「自分が何を感じたか」「何を思ったか」が残っていれば、それでよいと思う。
更に今回はAチームとBチームという2チーム編成で行われていて、それぞれのキャストのアプローチが完全に異なっていた。
本当にまるでまったく別の関係性とキャラクターに仕上がっている、というか戯曲を読んだ演者たちの解釈に任せてる部分が強く、演出でそこを「こうして」って縛り付けてない自由さと放任さがあった。
だからこそ余計に「Aの演者はこう読みときました、Bの演者はこう読みときました、じゃあ、貴方は何を感じましたか?」という問いかけをしてくれている気がするし、そこに正解は存在しないので「あなたの感じた事は全部正解」となるから、演劇って面白いよね、と。

どちらか1チームだけオススメしてくれ、と問われた時に、「この作品」だけを観たり男性陣が観るとしたらBチームなのかなとも思ったけれど、「中屋敷演出」を観たり関係性厨こじらせてるならAチームかなみたいな、Bの「解りやすさ」とAの「解りづらさ(よい意味)」の対比がめちゃくちゃ面白かった。
だからこそやっぱり両チーム観てあーだこーだ言っているこの時間が一番楽しいのだ。
両チーム観たからこそ、同じ言葉に対して別の解釈が生まれる。
そしてそれを同時摂取する事によって「なるほどそういう見方も出来るのか」という余白が生まれて、そして「だったら私はこう考えるかもしれない」という自分なりのアイディアを出す事が出来る。
更には比較して永遠に話し続けていられるから、楽しすぎて仕方がない。それにしてもこんなにベクトルの違う作品を同時期に演出つける中屋敷さんはどうかしてるのでは…と思ったけれど、彼は最初からどうかしていた。


冒頭に書いた「リーディングが少し苦手」な理由は「本を読んでいるから」であって、なんでそれが嫌かと言うと、現実の色が垣間見えるから。私は作品を観る時は現実を切り離してみたいのだけれど、台本を手に持っていたら間違いなく現実が見え隠れしてくる。後は「残り何ページくらいかあ」みたいなダメなところを観てしまって、世界観に入り込めない部分があるから苦手なのだけれど、今回は逆にそれが効果的で、中屋敷さんもアフタートークで話していたらしいのだけれど「読むというビジュアル」があるという事で、この時代設定の世界に入り込むのではなく「彼らが異物としてそこに存在する」みたいな事がよくわかって、とてもよかった。食わず嫌いもほどほどにしたい。
ただやはり基本的には視線が本に行っているのが余り得意じゃないので、今回みたいにそれが効果的になっている場合ではないリーディングは苦手なのだろうなあと思う。
リーディングにおける「目の前にいるけれど他人感」の心地よさをはじめて感じたかもしれない。
そもそも中屋敷さんのリーディング、よく動くから私の苦手なリーディングとはちょっと違うのだけれど。

両チームの細かい対比について

ここから個人的な備忘録も兼ねて、両チームの対比をする。
私が観た順番はB→Aだったのだけれど、個人的に当たりだと思った。
これは私や、私の周りの友人の主観でしかないが、Bの方が「当時演じられた戯曲の熱量に近い」、Aは「中屋敷さんの演出力が色濃い」イメージなのかなとぼんやり思っている。
いや、もうまどろっこしいからオタク用語で説明すると、Bが原作でAが二次創作っぽかったのだ。
B→Aで観た私からすると、Bで原作のキャラクター設定や物語の熱量を与えられた上で、Aで「中屋敷さんが読みたかった行間」を与えられたイメージがあった。
しかしA→Bで観た友達は上手く説明できないんだけどこう~~と言っていたので、私が「A→Bで観ると、先に同人誌読んだ後に原作読んだら”このキャラってこんななの!?”みたいになるギャップない?」という事を話したら「凄く良く解る」と言われた。そういう感じなのである。

もうちょっとネタ的というか個人的にしたい「関係性」の話。両チーム観終わった後にこんなツイートをした。それをもう少し掘り下げていく。



物語全体における詩人の立ち位置の比較
Aはどちらかというと舞台上も「気狂いの詩人」を中心に添えて、回りも客観視をしながらその気狂いにじわじわと侵食されて汚染していく感じ、逆にBは詩人が観ている世界を私達にも共有させられているというか「本当に気狂いなのは自分なのに、そのせいで周りが気狂いになってしまったように見える」みたいな印象を受けた。
Aの詩人は「気狂い」なのだけれど、Bの詩人はBを見ている上では「正常」で、おかしいのは周りというか。ひぐらしとかSIRENみたいな印象かなあ。


兄と詩人の関係性の比較
どちらも同じ「共依存」なのだけれど、依存の主が異なる。というのも、共依存というのは「最初に依存している人間」がいて、かつそれに対して「依存されている事に依存している人間」がいる。それがAとBでは逆転しているように見えた。
Aは詩人の力が強く兄を縛り付けているけど、その縛りに兄も依存しているところがあり、つまり詩人が共依存の元側で、兄が依存に依存している側。
今度Bは兄が詩人を縛り付けていて、詩人が無意識的に依存してしまうように仕向けているというか、精神的DVのような狂気さを感じた。安里兄マジで怖かった、あの人凄い。なので兄が共依存の元側で、詩人が依存に依存している側。

兄が詩人を「気狂い」と形容した時も、Aの古谷兄はこれ以上自分達の関係が一線を踏み越える恐怖から「”詩人”と”自分”」の世界を切り離していて、Bの安里兄はこれ以上他者が詩人に関与してほしくなくて「”自分達”と”他者”」の世界を切り離したようにわたしは受け取ったりもしていた。
古谷兄は「詩人を正常な世界に戻してあげたい」という感情、安里兄は「詩人と同じ狂気の世界に行きたい」という感情があるように私は受け取っていた。
「大切なのに一緒には狂う勇気がない」Aの古谷兄と「一緒に狂いたいのに手が届かない」Bの安里兄は、どっちも歯がゆくて、どっちも好きだった。けれど私は「一緒に死んでくれ」より「一緒に生きようよ」の方が好きなので、Aの古谷兄に肩入れしてしまう部分が強かったかもしれない。
共依存、本当に狂おしくて愛おしくて儚い関係性なので好きすぎる。


父を中心とする家族の比較
Bの唐橋父を先に観たので「うっわーーーーこれはずるいわ、敬三さん大変じゃん」と思ってしまったのが正直な話。しかしいざAの永島父を観たら「敬三さん……そうだ……あなたのずるさはそっちだよね…………」ってなり頭を抱えた。
「平穏な日常に憧れる」の印象も、Aの永島父は「3人の平穏な日常」のビジョンが見えたけれど、Bの唐橋父は「気狂い達から離れた自身の平穏な日常」のビジョンが見えた。
まさに「どうとでも解釈してちょうだい」という感じ(父の台詞の中で好きな奴)。
Aの詩人一家は間違いなく血の繋がった家族で、やわらかくて協調性が強かった。その中でバグが少し生じてしまったのでなんとか正しいルートに戻していこう、戻していこう、ともがいている印象。
Bの詩人一家は全員血が繋がってなさそうというか、「血が繋がってないからこその必死さ」みたいな印象を受けた。全員それぞれがおかしな個性を持っている中で正常が異常に変わっているから、おかしくていいんだよ一緒におかしくあろうよ、みたいな。難しい。
兄が父に「詩人に見捨てられるのが怖かったのは、本当はお前の方だろう」と兄を諭すシーンがある。
Aの古谷兄は兄が「共依存側」だから永島父も憂い嘆き哀れみみたいなアプローチで、ああまた1人息子を別の世界に見送ってしまった印象で、Bの安里兄は「依存してる側」だから唐橋父も一線引いてあざけ笑ってどこか他人事、けれど「こちらの世界にいらっしゃい」と手招きしているような印象だった。


ト書きの比較
これからときめくであろう若手俳優2人の実力がありすぎて仰け反ってしまった。絶対この2人は凄い事になると信じていたい。
Aの高橋ト書きは客観視されている詩人の世界を、より客観視させるために「あの物語」の一歩外から更に客観視をしていて、蚊帳の外から私達客側に向かって「事実」だけを淡々と教えてくれていた。他の誰かがどんなに狂おうが、「これが正しい道筋です」と道案内をしてくれた感じ。他の3人にも物凄く距離を感じたし、「ト書きと残り3人」が明確に別世界の人間である事が表現されていた。
一方Bの田中ト書きは、詩人の主観における「狂ってしまった世界」に組み込まれていて、世界の中から客に語りかけていた。なのでそれが「事実」なのかどうかが私達には判断出来ないし、とても感情を持っているように感じた。
他の誰かが狂えば狂うほど、ト書きがそれを誘引しているように見えるというか、間違った道案内をしているのが彼のせいのような、「詩人」から見た時に、ある種病的な「幻聴・幻覚」的な存在になっていたのでは?と感じている。なので他の3人との距離も近かったし、それぞれが言い訳の対象に出来るような、「物語の道筋をコイツが狂わせたから俺たちも狂ったんですよ」というような同じ世界の人間(ただし存在はしない)というような表現がされていた。……ように感じた。


全体的な比較
オタク的に言うとAは耽美な百合(島中サークル)、Bは強いBL(商業誌)という感じで、同じ戯曲でこんなに関係性と見せ方変わる!?という混乱があった。あまりにも例えがオタク的過ぎるから、ちょっと別な言い方に置き換える。
先に両チーム観劇した友人が「チョコレートに例えると、AはバッカスでBはマカダミアナッツチョコ」という意味の不明な事を言っていて、いよいよコイツも気が狂ったか?と思っていたのだが、自分が両チーム観ていたら物凄くすんなりそれが解釈出来た。
Aは甘くて安心できる外側のチョコレート(兄、父、ト書き)を舐めていたら、いきなりアルコール度数の高い「詩人」が中から出てきて口を痺れさせる。
Bは少しほろ苦くて少し固めのチョコレート(兄、父、ト書き)を噛んだら、中から脆くて柔らかくて優しい「詩人」が中から現れる。
みたいなそういう話。でもこれの中身は別にト書きでも兄でも父でもよくて、私は友人の例えを「詩人主体」で捕らえたけれど、何が言いたいかは解ったので気狂いと形容してしまった事に関しては陳謝した。


こんな所だろうか。とかく本当に面白くて、当初悩んだ末にAチームだけ観劇予定だったのをBチームも観る事が出来て本当によかった。
やはりWキャストはWキャストで観てこそ見えてくるものがあると思うので、時間とお金が尽きぬ限り、作品に歩み寄るという意味でもそこは大事にして行きたい。まあ中々それが難しいのだけれど。
ところで「中屋敷演出の柿喰う客劇団員」を観るのがなにより好きな私としては、2017年完全に勝ち越ししまくっている気がする。
特に屋敷さん演出の敬三さんのお芝居が好きなので(屋敷さんに振り回されそうなのに絶対に落馬しないあの安定感たるや)、上半期既に「虚仮威」→「ときめきラビリンス」→「ぼくらが~」→「サクラパパオー」と連チャンしていてこれは下半期死ぬのかもしれない。わくわくする予定が沢山なのはいい事だ。

更にはこのタイプの時間的にはサクっと観られるリーディングを是非これからも屋敷さんにはやってもらいたいし、観てみたいと思えたし、リーディングでもなんでもいいから「銀河鉄道の夜」「金閣寺(これはストプレが観たい)」「山椒魚」の3本はなんとかして屋敷さん演出で観たい。要望をとりあえずブログに書くな。