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夢は座席で安楽死。

観る→考える→想う→書く。

【デスミュ】夜神月の「正義はどこに」

デスミュ 【※】ネタバレ

「正義など無駄な概念だ」
ミュージカルM-1「正義はどこに」より

「私は自分が興味を持った事件しか手を出さない、正義ではありません。そしてクリアする為なら手段を選ばない負けず嫌いでずるい人間です。」
書き下ろし読みきり版「DEATH NOTE」 回想内Lのセリフより


ミュージカルでも似たようなニュアンスのセリフを言っていたが、より明確に断言している原作の言葉を借りることにする。
いずれにせよ月もLも「(誰かが決めた)正義は存在しない」「自分は(世の中の)正義ではない」という事を認識し主張していた。
あくまでも自分のみが自分の正義、そして自分に対抗してくる奴は悪、という認識だろうか。
これはそんなどこか似ている二人だけの己の正義の戦いだったのに、どこでずれが生じたのだろう?彼ら二人の決定的な違いはなんだろう?
そんな事を考えながら歌詞によく耳をすましていたら、これが中々しみた。
ミュージカルにおいての月とLの関係性については、【デスミュ】あいつこそが新世界の神様 - 夢は座席で安楽死。でも大分触れたが、もう少しだけ言及しておきたかったので、とにかく飽きるまで考えて書く。


原作の設定において、月とLの年齢差は7つある。ミュージカルではどうかは解らないが、Lはキラに対して「高校生…」と呟いていた声のニュアンスが「そんなに幼い者が?」というようにも取れたので、そのていで話を進める。実年齢の話ではないので底はまあいいのだが。
これは私の考えでしかないが、Lから見た月(キラ)はとっても幼い子供なのではないかと思う。
なんというか月は典型的な「良い子供」で、Lは「悪い大人」だ。
Lはあくまでもそんな子供に対して「目障りだから遊んでやろうか」*1と月(キラ)を挑発し、あくまでも遊戯(ゲーム)を楽しんでいる。
作中のLが月(キラ)に語りかける言葉や歌詞のどれもが、どこか小馬鹿にしてるというか、いちいち相手を煽る感じというか、上から目線というか。
「お前は自分と同じ立ち位置にいるが所詮私もお前も人間なんだよ、これはゲーム(遊戯)なんだよ、でもだからこそ楽しいだろう?」と挑発して諭しいてる感じなのが堪らない。
だが、それを伝えられる側の月はというとそのゲームに一生懸命熱中するあまり、大事な何かを見失ってしまった。


一体全体、夜神月の「正義はどこに」いってしまったのだろう。
悪いのは人を殺せる能力であって夜神月ではない。
崇拝されているのは正体のない「キラ」であって、夜神月ではない。
月だって最初は世の中の正義に、そして自分の正義を主張する事に対して無駄だと口にしていたのにも関わらず、
世の中の「キラ」という存在が大きくなるにつれ、「キラという存在=世の中正義=自分」、という図式を勝手に作りあげ、まるで自分は他の人間とは違う人を裁く立場の神であると思い込んでしまった。
一方のLの正義は「ただ自分にとって目障りな相手(キラ)を倒すこと」。そしてそれが「決して世の中の正義ではない」という事を認識しブレずに持っている。
その二人の「正義の価値の移り変わり」の対比が、夜神月の「幼稚で負けず嫌いさ」が、このミュージカルではとても鮮やかに描かれていて、好きだ。


今回はWキャストなので、二人の月を観る事によってそれらをより色濃く実感できて嬉しい。
個人的には浦井・月は自らの正義の主張の正当性を叫ぶ狂気を感じ、柿澤・月からはこれが正義であるという事を自らにも言い聞かせている様な狂気を感じた。
「これが正義でなくてはならない」という、文字にすると同じ言葉を、まったく別の表現で見せてくるのはとてつもない事だと思った。
小池Lと対峙した際に、浦井・月からはより強い「負けず嫌いさ」を、柿澤・月からはより強い「幼稚さ」を感じる。それは小池Lの演技も相手が変わると変化をしているからだろう。
一人のLに二人の月が対峙する事で、月とLの関係性を色んな角度から見せ付けられていて、やはり頭の整理が追いつかない。
しかしどちらの月にも、それに対峙するLにも本当に良い物を見せて貰っている。ミュージカルにならなかったら、彼らがキャストじゃなかったらここまで考えなかったかもしれない。


―――正義はどこに
その答えは、どこにもない。というより答えなんて最初から存在しない。
原作でも語られていたが、正義なんて誰にも解らないことで、自分で決める事だからだ。
だから月の正義もLの正義も、彼らだけのもので、他の誰にも関係の無いことだ。勿論私達にも。


どこにも存在しないはずの「正義」に対して、最終的に誰よりも強い執着を見せた夜神月が主張する正義は、結果的に「権力の道具」や「力のある指導者が決めた基準」になり、「その旗を掲げ大量殺人」を犯す。*2
それはM-1で月が「無駄な概念」と言い表したものまるっきりそのままである。
しかしそんな月が「ただ祈り、呪い、生きて、死ぬ。自分の夢に騙されて」*3いる事さえも、リュークからすれば「所詮その命死神の手の中。哀れな人生」*4なのだ。
リュークは「自分が世界を変えたと思うな。救世主はお前じゃない。」*5と諭す。


Lもリュークと同じ様にその事実をきちんと理解していて、それに対して反発をする。あくまでも自分の意思で、自分の言葉で。
それでも月は、自分の正義を主張し、世界を支配することをやめようとしなかった。止めれば止めるほど加速し、反発されれば更に反発し、感情は増徴していく。
夜神月という人間は、自分自身が放つ光の眩しさで、世界が見えなくなってしまっているんだなと改めて思った。
「キラ」というフィルターを通さなくても、月自身を見ていたり、評価している人間は周囲にいたのに。彼の放つ光が余りに眩しすぎるあまり、彼はその事実に気がつく事が出来なくなってしまった。これが何より一番の彼の「幼さ」ではないだろうか。
月(ライト)が光(ライト)に溺れていく。
このダブルミーニングは、ちょっとぞくっとした。


だからリュークはそんな幼い月を、月の正義を、キラを称える人間達を、「元通りの面白くねえ“無”」と表現し、この物語にピリオドを打ったのだろう。


初回観劇し終わったあとの歯にものがつまった感じというか、前がよく見えなくなった感じは、観たものに明確な答えを与えてくれない事なんだと思う。
しかしこの作品で大事なのは「正義はどこに」という言葉そのものであり、誰かが決めた答えを提示することではない。私もそれは求めていない。
ミュージカルにおいても、デスノートという作品は善悪論ではなくて、自分なりの答えを出すことが必要なんだろうと思う。
そんな風な事を考え、一度ストーリーを頭に入れた上で、再びセリフや歌詞に耳を傾けてみると、序盤から全ての言葉の重みが尋常ではなく、観劇後には初回の倍以上疲労困憊した。
物凄く巧妙で、繊細に作り上げられている。まるでドミノ倒しみたいにパタパタと言葉や演出の意味がわかる快感がたまらない。
だからこんなにこの作品から抜け出せなくなっているのだろう。

「皆さん個々の解釈で完成させて楽しんで頂くのが『DEATH NOTE』なんです。」
公式ファンブック「DEATH NOTE13 HOW TO READ」大場つぐみインタビューより


この絶妙なニュアンスを表現したミュージカル版は本当に制作陣のデスノートという作品や考えに対するリスペクトが凄いな、と改めて感動と感謝をした。

*1:M-8「ゲームの始まり」より

*2:括弧内M-1「正義はどこに」より

*3:M-2「哀れな人間」より

*4:同上

*5:M-5「キラ」より