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夢は座席で安楽死。

観る→考える→想う→書く。

【デスミュ】数多世界のキラとLと月と竜崎と、そして

 
 
ライヴ録音盤CD発売決定おめでとうございます!

本当に嬉しい、本当にありがたい。
「出来ない」と言われていたものが覆るというのはとても凄い力だと思うので、心の底から感謝。
ATMで5000円下ろしたいところを50万下ろしたレベルには動揺した、それ位嬉しい。


という訳で、あっという間に大阪公演初日。
名古屋までは在宅お留守番組なので自分のブログ読み返しつつあれこれ。
あれこれというかまだ飽き足りずに「Lと月の関係性」の話をする。


大阪・名古屋が初見だよ~という方は今までの考察とか感想とか歌詞メモとかあるのでよければぜひ。
そして貴方の感想や考察もぜひ、ぜひ。観た人の数だけ世界が出来るデスミュは最高に楽しい。
デスミュ カテゴリーの記事一覧 - 夢は座席で安楽死。


ちなみに今回は他メディアミックス(主にアニメと映画とミュージカル)を踏まえた上で
「Lと月の関係性」を考えた時に「改めてミュージカルに感謝したい」という話をするので気になる方は念のためご注意を。
観劇後一番最初にごく一部の友人向けに書いていたのを加筆修正。綺麗な比較をするのって難しいので言葉選びにかなり時間がかかった。
今も適切な表現が出来てるかは自信が無いので「どれも良かった」というのを一番上で主張しておく。
あとは原作・アニメ・映画すべてのネタバレありなのでこちらもご注意あれ。


各媒体での勝利者及び彼らの最期について

主観ばりばりでざっくり書くので、ざっくり拾ってもらえれば幸い。
勝利者という表現が適してるのか微妙なのだけど「物理的勝利者」位のニュアンスで。

原作

1部:月の勝利
Lの死因→レムに名前を書かれた為
※月がレムにそう行動せざるを得ない状況を作った


2部:Lの後継者の勝利
月の死因→リュークに名前を書かれた為
※月がリュークを頼った事により見限られて
SPK及びリューク、魅上の目の前で命を落としている


Lの後継者であるニアとメロの力により、月がキラである事が全面的に暴かれている。(世間への公表はなし)
結果的にLは命を落としているが【L側の勝利】と取れる。
双方死ぬ間際まで互いを憎んでいて、赦しの描写は一切無かった。
殺伐とした空気のまま「どちらが正しかったのか」「キラは本当に悪だったのか」というニュアンスが強い。


アニメ

ほぼ原作と変わらずだが双方の死ぬ間際の行動と心理描写に少し変化あり。


1部:月の勝利
Lの死因→レムに名前を書かれた為(原作と同じ)
アニメ問題の25話内に置いて、死ぬ少し前L自身の意思で月と共に屋外で雨に打たれ会話をする描写、
濡れた月の足をLが拭く描写(ユダとキリストをモチーフにしている)あり。


2部:Lの後継者の勝利
月の死因→リュークに名前を書かれた為
※月の負けを察したリュークが全てを終わらせた(原作よりかは哀れみを感じた)
倉庫内で魅上は自殺をしており、倉庫から飛び出した月は誰もいない場所で死に至る。
死ぬ直前に今までの行動を振り返り、死ぬ間際に月の目の前にLの姿が現れ、安らかに目を閉じる描写あり。


原作と同じ道筋を辿っているのだが、月にとても優しい作りとなっている。
同じ話ここまでニュアンスを変えられるのか!と驚き、あとは軽率なオタクなのでテンションが上がった。
嬉しい反面「赦し」の描写が入ってしまった為に、Lが月を受け入れてしまっている様だったり
月がLに悪いと思ってしまっている様だったり、色んなキャラクターが月を立てていたり、どこか二次元ならではの綺麗さが残っていた。
「どちらも正しかったんだよ」「悪いのは罪なのでは」というようなニュアンスが強い。


アニメは色々衝撃だった記憶がある。本当に綺麗な世界観だった。
久々に25話を見たら「嘘だろ」と口に出して言ってしまった。
あの頃のアニメにしては映像も綺麗なので、今回で興味を持った方はアニデスもおススメ。


実写映画

Lの勝利
月の死因→リュークに名前を書かれた為(原作と同じ)
Lの死因→予め自分の名前をノートに書いていた為


実写映画のみ死ぬ順番が月→Lになっている。
月の死因は原作と変わらず、2部のメンバーは出てきていない。
そして実写の場合、Lが全てを暴き月が命を落とした後で「その為に必要だった方法」故、L自ら命を落とす。
つまりLは月の手にかかっていない為、Lの完全勝利の形に近い。
その後映画三作目のL主体のスピンオフもあったのだが、アニメ版と魔逆で実写映画は完璧に「Lが正義で月が悪」だった。
広範囲で公開されるものだとやっぱり善悪論になってしまうのかなと当時少し寂しい気持ちはあった。
「正しいのはL」「悪は罪、すなわち月が悪い」というぱっきりとしたニュアンスが強い。


尚、スピンオフ公開日に原作書き下ろしがジャンプに掲載され「私は正義ではありません」とLに言わせたエピソードは割りと有名なのかな。
私はLが大好きだけど、Lの行いを正義だと思った事が無ければ全肯定している訳でもないので、「皆の正義はLだ!」と言われている様で、天邪鬼な私は「むむ?」となっていた。
ただこの書き下ろしのお陰で「ああこれは別の世界なんだ」と思えて愛でる事が出来たのでとてもありがたかった。
映画版のキャストも大好きだし、話も自分の中では「そういう解釈も出来るのね」と楽しかった。ワタリとLの関係とか、捜査本部とLの関係とかが書かれていたし。
あとは何より月(キラ)の為にLが自分の命を投げ打つ、という行動を取ったのが中々凄かった。あと、松田かわいかった。

ミュージカル版

……に、関しては勝利者も正義も私達の手に委ねられている所が多い。
以前書いた【デスミュ】幾千万の最期を考え - 夢は座席で安楽死。に細かく書いてあるのでそちらもよければ合わせて。
「でもどちらが正しかったのか」「キラもLも悪(not正義)だったのでは」というニュアンスが強い。


死ぬ間際まで憎んでる、敵対している、そんな二人を尊重してくれた上に、
ラストシーンも余韻が残る形になっているので、「もやっと感」は原作に一番近いかなと個人的には思っている。
「綺麗に終わらせない事」が二人の関係性において一番綺麗だ!というイメージが強い。



こんな所だろうか。
つまる所、今まで色んなパターンをやってきていたのであった。
受け取るこちら側としても「こんな事しない」「こんな事言わない」とかの次元では無い感は強い。


竜崎≒白月という表裏

ミュージカルには「人の痛みを知る事が出来る人間」の部分の月(以降白月)が存在しない、という様な話を下記の記事で以前書いたのだけども。
【デスミュ】人の痛みとキラと妹 - 夢は座席で安楽死。
同じ様にLの「竜崎」という別称が存在していない。また大きなポイントとしてワタリが存在しない。


ミュージカルのみの方向けに軽く説明すると。
原作内で捜査本部に月が出入りする様になる際に、捜査本部のメンバーも合わせて偽名を使う様になる。
その際にLは「私の事は竜崎と呼んでください」と伝え、夜神親子は「朝日」という苗字を名乗る為、Lから月への二人称が「夜神くん」から「月くん」に変わっている。
ワタリは竜崎の右腕権お世話係の様なイメージ。


W月から発せられる「竜崎」という単語を聞きたかった~という煩悩もあるのだが、何故「竜崎」の名前を使わなかったのかを色々考えてみた。
まず、個人的にはデスノート内の月の側面とLの側面はこんな感じでそれぞれが相対しているのでは?と思っている。

夜神月 L=Lawliet
キラ 探偵L
学生・月(夜神くん) 学生・流河早樹
白月(月くん) 竜崎


と、いう感じで表裏一体なのかな、とぼんやり思っている。そして今回のミュージカルでは最下層部分の二人が存在していない。
白月が存在していないのなら、竜崎が存在していないのはむしろ自然なのかなと考えるようになった。
原作や他メディアミックス内において、竜崎とワタリは切っても切り離せないものであったし、
ワタリがいて、白月がいて、竜崎がいたので、疑いはあれど「人間関係」を構築していっていたし、捜査本部との和気藹々とした描写も多数あった。


竜崎と白月のやり取りは、いわばデスノートという殺伐とした物語の中でのひと時のオアシスというか、夢を見させてくれていたというか
「信頼」とか「平和な世界」とか「二人が手を組む」みたいなそういう物を私達に見せてくれた。
壊れる前提の、疑いの上の信頼関係を築くってどれだけ不毛な事だろうと思っていて、でも私はそんな不毛なこのオアシスが大好きだ。
だが、今回のデスミュにおいてその「信頼の構築」の部分が必要だったか?と言われると、そこは取捨選択の中で捨に入って良いと思う。
何故なら信頼を描くには時間が掛かる。そしてその時間の経過を端折ると、途端に物語がチープになる。
この話は「Lと月が仲良くなっていく物語」ではないので、その「信頼」の箇所をばっさり切ったのは英断だし、それによって二人の関係性が尺内で綺麗に描かれていると思う。
この舞台が4時間あるとか、前後編ならば入れて欲しかったなとは思うのだけど、3時間もない尺でなら二人の関係を尊重するなら切る方が吉かなと。私は。
つまり「歩み寄った歩数」と「疑う度合い」がイコールになっているというか。そういう感じ。


以前「デスミュのLと月くんはぼっち度がたかい」とツイートしたのだけれど、まさにその通りというか。
月だけに限らず、Lもまた「人の痛みを知る事が出来る人間」の部分があまり構築されないままだったんじゃ…と思うと、震えた。
故に尺の都合や物語構成の都合もあれど「ミュージカルにワタリがいない」「竜崎という呼称が存在しない」のはそういう事なのかなと感じた。
Lと捜査本部の人間関係を構築させなかったのは、良い判断だったのではないかと私は思う。
(捜査本部と仲良くしている竜崎を見たかったという煩悩はさておきとして)


ミュージカルはLを竜崎にしてくれる人もいなければ、大人なLが幼稚になっていくのを止めてくれる人もいない。
完璧に孤独な天才が、双方しか見えない世界の中で、お互い幼稚で負けず嫌いに拍車がかかっていく。
それを誰も止めてあげることはしないし、止めることも出来ない。
この二人はまるで「子供のケンカ」をしているみたいだよね、と。
Lは月に比べたら大人びているが、ハタから見たら二人ともまったくもって大人じゃないし、認めあっているけれど今にも「死んでも許さないからな!」とか言い出してくれそう。
命を落とすという事が終わりではなくて、むしろ死んでも悪態をつき合っていそうというか。
「地獄」という幼げなフレーズも二人とも使うし、やったらやり返す、「1回は1回です」論法が全体的に体現されているというか。
手錠を繋ぎながら互いの拳で殴りあいケンカしている白月と竜崎が、目に見えるパーツとしては存在していないのだけど、その片鱗が時折顔を出している気がする。


そして二人のその幼稚さから堪らなく「生」を実感する。
なんとなく、月もLも原作を越えて等身大の「この世界に生きている人間」らしさが強いなと思った。
やっぱり物凄く楽しそうで、それが「二人だけの世界」に見えるのかもしれない。
ああ「まるで今世界に二人だ」ってそういう事なんだよ、と再びかみ締める。


だからラストにおいて「明確にされていない部分」に関しても、そんな孤独な二人の世界観が強い故に、
「ああもう私達には解らないんだね、教えてくれないんだね、いいよ君達二人がわかっていれば」という気持ちにさせられる。
気になるあれもこれもそれも、数多のifも、「私達には解らない(教えてもらえない)」のが正解という解釈にしてみる事にした。


上記を踏まえた上で

つまり何が言いたかったかというと。


Lには月のことを赦さないで欲しいし、月にはLに対して悪いなんて思って欲しくない。
月は心の底からLのことを憎み続けて欲しいし、Lには心の底から月の事を疑っていて欲しい。
赦しもいらなければ、哀れみもいらない。
彼ら二人を繋ぐ絆は「疑い」と「命をかけた遊び」であってほしい。
そして、どちらも負けず、どちらも勝たずでいてほしい。
完璧すぎる神の様な誰も手の届かない所にいる二人が、あくまでもお互いの前では「対等の汚い感情を持っている一人の人間」でいて欲しい。
と、言うような事を長年思って生きていた。個人的な趣味として。


それを考えるとミュージカルのこの展開が一番原作とかけ離れているようで、二人の関係性は原作で私が感じていたものに近いんじゃ?と思えた。
シナリオ・行動は違えど二人の「負けず嫌いで幼稚」な面や「双方がプライドを傷つけあう」面を踏まえた上での二人の関係性は凄い綺麗に描かれてた様に見える。
なのでこの脚本に多少無理があれども、そこに特化して着目したらものすっごい好きだなという結論にしかならなかった。
ああだから私は今こんなにこのミュージカルに心を奪われてるんだろうなと、語りきれずこんなにブログを書いている訳で。


なんというか「月とLが実際に現実にいたらこれくらい人間らしいんだろうな」と思えたし、
二人が同時刻に離れて倒れているのを観たら「最期まで対等な二人」が好きな自分は涙が出たわけで。
とかく「二人の世界」のまま幕が降りたのが心底嬉しくて堪らなかった。
誰の介入も無いまま、二人の勝負が二人の物として終わりを迎えたというこの形に対して、
私個人の感想として、感謝をした、納得もした、そしてこんな形の二人が見れるを待っていたのだと思う。


これはキラという正義、そしてLという正義の戦いだから、二人が対等な関係じゃなくなってしまった以上「面白くない」と判断してリュークが物語の幕引きをする。
というのは突然にも見えるけれど、凄く二人の関係性を尊重している気がするなあと。
二人の関係性に求めるものが「憎しみの上の認め合い」と「そこから構築する二人にしか分かり合えない友情」なので、その辺りの解釈と
あと「人間の汚い部分」「どんなに力を持っていても人間は平等」と言うようなところを見せてくれたのがデスミュなんだろうなと、やっぱり思っている。


まとめ

当時の原作好きの間ではやっぱりうすぼんやりと「月派」とか「L派」とかがあり。
月派の人はLを良く思わなかったりとか、L派の人は月を人でなし扱いしたりとか、まあそういうのがあった訳で。(勿論全ての人がそうだった訳ではない)
私はまあ言うてしまえば後者の「L派」なのだけれど、でもだからって月の事も大好きで。
月好きの人はL好きの人が月に物を言うのに対して割と一線を引いていたし、L好きの人はL好きの人で集まってかわいいかわいいとしていれば~みたいな所が少なくも無かったので
「二人の関係性」が好きな私としてはどちらの事も悪く言えないけどどちらの事も悪く言いたい!という気持ちが強かった。


なので今回こうしてメディアミックスで今までに無かった「二人とも悪人です」「でも二人とも正義です」「二人は対等です」というのをドカン!とぶつけてくれたのがありがたく、
それにより昔から原作が好きな人とも、新しく好きになった人ともどっちが良い悪い戦争とかじゃなくて「二人が対等な世界」を愛でられる事に、改めて心から感謝している。


アニメが「月推し」「互いにどこか許しあい認める最期」
映画が「L推し」「完璧なる正義と悪の最期」だとするなら
ミュージカルは「Lと月が対等推し」「二人とも許しあえないけど認める最期」という感じだろうか。
見事に今までのメディアミックスとのバランスの良さで、そして余計に今までのメディアミックスに対して
全てに愛があって「月が好きだからこういう表現にしてみた」「Lが好きだからこういう世界もありかなと思った」ってなったのだろうなとストンと納得がいった。
お陰で今までよりも更にデスノートという作品が好きになれた気がして、この10年後の2015年にミュージカルにしてくれたのは、個人的には物凄く大正解だったと思っている。


結局の所、色んな事を考えて色んな言葉を喋って、それでも最終的に「ありがとうございます」しか出てこない訳で。
デスミュは、デスミュという1つの作品として素晴らしかっただけではなく
「今までのメディアミックス」「これからのメディアミックス」に対して更に広い心を持てる様になった。
これからTVドラマも始まるが、何が起きても大らかな気持ちで見れるだろう。
とても狭い視野しか持てない私がそう思える様になれるまでの作品。それって、物凄い事だ。
結果的にこうしてずっと触れたかったけど上手く言葉に出来なかった大きなポイントにも、濁さず触れる事が出来て本当に良かった。


東京で地続き30公演やってきた時とは、良くも悪くも色々変わるのが地方公演というもので。
大阪・名古屋公演はまずなによりシングルキャストになり、劇場の大きさも、指揮者も変わった。
「東京とまったく同じ」…もとより「1回としてまったく同じ」公演が存在しないのが舞台の醍醐味なので
これから観劇される方の新鮮な意見、東京から見続けてる方新しい解釈、色んな視点、自分の発見、それからそれから…という感じである。


一言弱音を言うと、本気で終焉を迎えるのが辛い。
でもそれだけ大好きな作品に巡り合えたのは久々なので、喜びでもある。
人は死ぬから必死に生きる、物語は終わるから愛おしい。
舞台の「同じ公演は二度とない」「巻き戻しは利かない」という所が、デスノートの「コンティニューできない命をかけたゲーム」の刹那感に近しくて、ドキドキするのだろうな。


指をこぼれるチケットをすくい集めても、あと少しすれば全部半券になってしまう。
私の40カウントが始まるのは、もうちょっとだけ先だ。