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夢は座席で安楽死。

観る→考える→想う→書く。

【舞台】地獄のオルフェウス

【※】ネタバレ 舞台

地獄のオルフェウス

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2015年5月7日~5月31日
シアターコクーン

http://www.bunkamura.co.jp/cocoon/lineup/15_orpheus/


三浦春馬くんが今回初のストレート挑戦との事なので観劇へ。
どえらく久々なシアターコクーンは私の記憶より遥かに小ぢんまりとしていた。
ここってこんなに狭かったっけ。
座席に座ると、外の晴天がまるで嘘だったみたいに、薄暗い世界の中で雨が降り続いていた。


本当に簡潔にいうと

「この舞台は二度と観たくない」
と、はっきりそう思った。
この言葉は決して舞台がつまらなかったとか、役者が酷かったとかそういう意味ではなくて、
この作品を褒め讃える言葉として適切なものがこの一言しか見当たらなかった。


正直、感想を書く事というかこれ以上この舞台について考える事すら諦めて、観なかった事にすらしたかった。
けれどもそこまで苦しかったんだと言う事は綴っておいた方が今後の自分の為になりそうなので、今の感情は残しておく事にする。
故に、この記事内では相当否定形の言葉を多用するので、予めご注意をというか
それらの言葉が全てひっくり返って、舞台自体を肯定している物だと了承頂ければ幸い。

ぱらぱらとした感想を

「地獄のオルフェウス」という舞台が重いのと長いのは解っていて。
予防策として当日観劇後から名古屋に飛ぶスケジュールを組み、友人と一緒に観劇したのにも関わらず、それでもめちゃくちゃしんどかった。
かろうじてシアターコクーンの椅子が固いという事や、座席に座っている人達の動きだとか、そういう普段なら集中を欠いていっていらいらさせてくる物たちが
「大丈夫これはお芝居だ」という様に私を現実に引き戻してくれた。


2時間近い1幕の後の15分間の休憩で、たまらずシアターコクーンから外の化粧室に出た。
アメリカの排他的な小さな町から、2015年の渋谷に引き戻される。
日の光が眩しくて、レストランにいるお客さん達の笑い声が心地よくて
なんで私はまたこの後あの固い椅子に座ってこんなに苦しい物語を見続けなければならないんだろうと思った。
のだけれども、ここで逃げては何の意味も無いというのも解っていて。
どんなに辛いと解っていても最後までは見届けたかった。ので中座はしなかった。
そして結果的にメンタルをがっつり持って行かれた訳である。


この舞台がつまらないものだったら、終わった後にあれが嫌だ、これが嫌だとブツクサ文句を言えた。
俯瞰で物をみて役者のここは良かったんだけどね、みたいな事も言えた。
けれど何も言葉が見つからなかった。というより噤んでしまいたかった。
今日自分がシアターコクーンにいた事、この舞台を観た事、何かを感じた事、全て無かった事にしたかった。


冒頭暫くの間は、意外と引きで観る事が出来た。
まだ渋谷の劇場にいる私が、嘘の世界を覗き見していた。
けれど舞台にレイディ(大竹しのぶ)、ヴァル(三浦春馬)、キャロル(水川あさみ)が揃ってしまった瞬間
私はアメリカの小さな町で、救われる事の無い彼女達に救いの手を伸べてあげる事の無い傍観者になってしまった。
物語の当事者になってしまった気持ちだった。あまりにも、苦しかった。


私自身がたまらなく「村社会」が嫌いだ。
けれどこの世界は村社会で、そしてその村に溶け込めないものは叩かれ罵倒される。
私はキャロルの事を一度も変だと思わなかった。けれど物語の中のあの人もあの人も皆キャロルの事をおかしいと嘲笑う。
もう、その空気感がたまらなく苦しい。
水川あさみ演じるキャロルは堪らなく綺麗で、今にも消えて無くなりそうな位か弱いのに、力強かった。
彼女の狂った笑い声だけが、私を助けてくれた気がした。


「脚の無い小鳥」の話をするヴァルは、とても30歳には見えなかった。それがよかった。
三浦春馬という役者が30歳を演じ切れていない訳ではなくて、この物語の中においてヴァルは決して大人ではなかった。
そのあどけなさというか、浅はかさというか、視野の狭さというか、幼さというか。
「自分はそうじゃない」と世界を俯瞰で見ながら、結局は狭い世界の中で何も変われずに生きている。
俺はそういうのはやめたんだ、と言いながらも、元いた世界から離れられないヴァルは、守られた大きな大きな檻の中で自由に飛んでいる様だった。
安全な場所の中で安堵しながらも、鎖に縛り付けられると途端に怖くなる、そんなヴァルの見えないものに怯える表情や振る舞いが、堪らなかった。
ヴァルの断末魔の悲鳴が余りにも苦しくて、思わず吐き気に襲われそうになった。ぞっとした。


レイディは、かわいそうな人だと思った。
事実をありのまま並べても勿論可哀相なのだが、それを全部ぜんぶ、自分は何も悪くないのに私はこんなにかわいそうなの!となってしまった事が、一番かわいそうだった。
悲劇のヒロインは、残念な事にハッピーエンドを迎えられない。
気がつかぬ内に、自身を悲劇の主人公に仕立て上げてしまい、周りの全て何もかもを否定して、自分の事しか考えられなかった彼女には、やはり悲劇が待っていた。
彼女に救いが無ければ、こんなには苦しく無かったのだろうか。
真っ暗闇の中で一筋の光を見つけたのにも関わらず、その光もむごい形で奪われてしまった。
けれどレイディはきっと幸せだったのかなとも思った。
この排他的な村社会の小さな村から、自分を縛り付ける死神から解き放たれる。
そしてヴァルを縛りつけ、自分の幸せを手に入れた。それを失う事なく命が終わる。結局幸せって、なんなのだろう。
彼女の泣き出しそうな金きり声が、今でも耳に残っていて、離れない。


「死神は死にたい時には来てくれない、生きたいと願ってる時には現れるのに」
そんな風なセリフが印象的だった。
神様って、そんなに都合よく動いてくれないよね、意地悪だよね、と何度も思わされた。
激しく鳴り響くジェイブの杖の音も、軽快な菓子屋のBGMも、笑い続けるレイディも、怯えるヴァルも、正論を叫ぶキャロルも、
そしてそれらを集団で排除する街の皆も、ぜんぶ、ぜんぶ、怖かった。
早く銃声を鳴らしてこの物語を終わらせてくれ、どうか彼女達をこれ以上苦しめないであげてくれ、そんな事を思いながら舞台を観たのは久々だった。


終わった後に陰鬱とした顔でbunkamuraから出ると、やっぱり外は2015年の渋谷の街中だった。
全部が悪い夢だったのかな、と思ったけれど、やっぱり私は約3時間あの世界の中にいて、傍観者という名の加害者になってしまった、そんな気がした。


余談

なんだかんだ結構色んな場面で三浦春馬くんを見ているのだけれど、すっかり大人になったなあという印象だった。
初舞台の時はそもそもが若かったし、2本目3本目の時は「息子」というポジションだったのが
今回一人の大人の男の役だったし、何よりストレートだったしで、余計にそう感じたのかもしれない。
良い意味で少し陰を見せる表情が多くなっていたし、私はやっぱり彼は生で見たいな~と思う気持ちが強い。
後は随分と歌が上手くなっていて驚いた。
今回は弾き語りという形で歌を歌うのだけれど、低音から高音への切り替えがとても綺麗になっていたし、高音の伸びも圧があってよかった。
10代の頃から役者以外の側面も見てるからかもしれないけれど、これからも色んな役が見れたらいいなあと思ってしまった。
「さわやかイケメン」とか「かわいらしい笑顔で」だけでなくて、可能性をみせてもらえたので、これからも彼の演技が見られる機会があるのが楽しみ。