夢は座席で安楽死。

観る→考える→想う→書く。

【舞台】天邪鬼

天邪鬼

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@本多劇場
2015年9月16日~23日

http://kaki-kuu-kyaku.com/amanojaku.html


1年半ぶりの柿喰う客の本公演。客演なし、劇団員のみ、本多劇場にて。
深谷さんが降板されてしまったのはとても残念だったけれど、ただだだひとこと「観れてよかった」。
こんなにも携帯電話を切らないとまずいと思わされる舞台は中々ない。お見事。
先に言い訳をしておくと、物凄く眠いのでいつも以上に何を言っているか解らない。

作品について

作品についての細かいことはまた乱痴気公演を観てからでも書けたらなのであっさりめ。


本多劇場のステージにポツンとおかれるセット。
大道具も小道具もなにもない。ステージの上に役者が6人現れたり消えたり。現れたり消えたり。消えたと思ったら現れたり。
役者の演技と、キラキラと光る照明だけが世界のすべて。あとはイマジネーションで補ってゆく。
だから、観終わった後とてもお腹が減った。頭をとても使った。

でも「見えないものが見える」、「そこにない景色が広がる」。それらって舞台ならではのもので。
どこまでも舞台が、演劇が大好きな人達が、その大好きなものの魅力を精一杯伝える為に、ただ好きなものを好きなだけやる為に作られた90分間の空間。
「演劇を取り上げたら死んじゃう」人達が作り上げ、「演劇を取り上げたら死んじゃう」人達が客席に沢山いる。ああ、下北沢、本多劇場と言う感じ。

けれどそれが「わからない人は来なくていいよ」という排他的なものではなくて。
決して高尚気取って籠城している訳ではなく「僕たちはこうやって生きてるんだよ」というひとつの生き方を見せられた感じ。
誰に誉められなくても、責められても、相手にされなくても関係ない。自分たちの自分たちだけの生き方を感じられる舞台だった。
「大道具や衣装がなく、想像力を極限まで引き出される舞台」を普段観ない方でも、役者の数が少ないのと、色んな有名なお芝居のネタを含めてさくっと楽しめて、体感できるんじゃないかな。
下北沢独特の「一見さんお断り」みたいな、少し近寄りがたい空気も少ないと思う。(本多劇場はちょっと近寄りがたいのはよくわかる。)


色んな場面で活躍してきた柿のメンバーが、中屋敷さんが集めた視線を、満を持して「自分たちが伝えたい事」に焦点を当てる。
今、このタイミングでこの舞台を作り上げたのは、計算なのか、偶然なのか。
いろんな人に注目されているこの2015年に、この作品を上演した事はとっても素敵なことだと私は思う。

初日だったので色々とセリフが飛んだり噛んだりという事はあったけれど、柿メンバーの演技力やころころ変わるセリフ、役は90分でお腹がいっぱいになる。
少しテンポが早めに進むけれど、複線がどうのこうのという舞台ではないので、特に前情報もなくて大丈夫。
ちなみに今回の公演は中屋敷さんも久々のご出演なので、最近じゃレアな彼の演技も観られる。

舞台が好きな人、演劇がないと死んじゃう人は勿論のこと、そうでない人は「こういう人もいるのか」という興味本意で構わない。
シルバーウィーク丸々使って本多劇場でやっているので、ぜひふらっと立ち寄って見て欲しいなあ。というものすごくストレートなオススメ。


「演劇を取り上げられたら死ぬ」ということ

今作品に対して、柿喰う客への私からのアンサーというか、ラブレターというか。
どうでもよい私の話も入るのでそういうのが苦手な方はご注意。


今、色んな「お芝居」が世の中にはあふれてる。
色んな理由で作ってる人と、色んな理由でお金を落とす人、座席に座る人がいる。
私の側面は1つではないので、都度いろんな感情でその場その場にいるのだけれど、私の根底にはやっぱり「生きる為に観る」というのが大きくある。
だから今回の公演をみて、砂漠の中でやっと水を差し出されたような。
はたまた傷口にあら塩を塗りたくられたような。もしくはどっちも。そんな気持ちになった。


私の過去と現在と未来がどうだとかそういう話は多分このブログを読んでいる9割強の人が興味がないと思うので割愛するのだけれど。
自分の人生において「色々あった」のはとりあえず記しておきたくて。
それでまあその「色々あった」結果、私は人と上手くコミュニケーションが取れない人生を送ってきたし、送っている。
行間を読みすぎてしまって、人の顔色を伺いすぎてしまう。良くも悪くも物凄く空想と妄想の世界に飛び込んでしまい、頭の中から言葉があふれ出てしまう。
そしてそれを定期的にアウトプットしていないと具合が悪くなってしまう。
現に今こうして初日の幕が下りた数時間後にこれだけ長い文章を書いている。何故やるか。やらないと具合が悪くなるからだ。
この文章を今書いておかないと、私が明日の朝目が覚めてからの生活に支障が出る。むしろ眠れない。そういう人生を送ってる。


私は、狭く閉ざされたどこか村社会的な日本の学校だとか社会だとかの「集団」の中で、自分の居場所が見つけられないし「人と同じ」がうまく出来ない。
人と喋る事がまったく出来ないわけではなくて「自分をさらけ出せない」。なので自分のことを知られれば知られるほど怖くなるし、知られないように色んな場所で別々な自分の側面を見せていた。
それらの側面は決して全部嘘ではなくて、全部が全部まちがいなく私なのけれど、ハタから見ると統一性がないので嘘つき女に見えるんだと思う。
なので「学校」とか「会社」とか、強制的に定点に所属させられると、私の沢山の側面は途端に「嘘」にされてしまい、具合が悪くなって逃げ出してしまいたくなる。
そんな風に社会に上手くコミットできない駄目人間なので、お芝居は元々好きだったけれどいわゆる「学生演劇」の集団にすら属せないレベルで集団が苦手だった。だから一人で静かに劇場に足を運んだ。
舞台を観てる時間だけが唯一自分の頭の思考回路を遮断して、「他人の世界」を考えられる時間だった。
そして「客席に座ってお芝居を観る」という事だけが、唯一私が誰かと同じ時間を共有できる瞬間だったし、それが次第にその時思った感想を「誰かと話し合う」事が出来るようになった。


なぜなら劇場に集まる人達は皆どこか「そう」だったから。
先日公開されていた、中屋敷さんのこのインタビューを読んで、胸が痛かった。
www.cinra.net
「なんでみんなが赤の他人と喋れるのかわからなかった」「学芸会がずっと終わらなければいいな」
それらの言葉に首がもげるほどうなずいた。


演劇をやる人も、観る人も、どこか現実世界で上手く生きる事が出来なかったりだとか、現実世界で使うと集団からはみ出てしまう「何か」を、演劇に向けている人が多いと思う。
皆が皆不器用に生きてる。なので他人にも「普通であること」「他の同じであること」「上手く生きること」を強要しない。
皆が皆好きに考えてたらいいじゃん、と、心地よい距離感でいてくれる。
そもそも「上手く生きる」ってなんだろう。「皆と一緒」がそんなに偉いのかな。そこまで思わせてくれた。
そこまで気がついた時、自分が息苦しさを感じていた、自分が所属できなかった、自分がコミットできなかった、集団と言うものは、決してそれだけがすべてじゃないんだと思えるようになった。
そうしたら、色んな事が良い意味でどうでもよくなった。なので今は物凄く元気だし、人生は色々あるけどとても平和に暮らしている。


それでも相変わらず私は自分のことも、人のことも飽き足らず考えてしまう。空想の世界に飛び込んでしまうのは変わらない。
だから「演劇」を観て、体感して、人の世界を覗き込んだり、現実ではない世界を目の当たりにして、気を紛らわす。そうやって、生きている。
そしてこうやって今ブログやTwitterをはじめて、少しずつ少しずつ、どこにも吐き出す事がなく一人で喋っていた言葉たちをインターネットの海に投げつける。
その感想に誰かが反応してくれたり、賛同してくれたり、たまに反論がきたりする。それが、もう、凄い。
「私は今、社会にコミットできている」「人と何かを共有できている」。
普通の人からしたら当たり前の事だけれど、それが出来ずに辛い辛い毎日を送っていた人間からしたら、地獄が天国になったみたいなもので。
現に私は今日友人と一緒に舞台を観ていたし、別の友人が私の勧めで観に来てくれた、他の日にも別の友人と一緒に観劇する。
こんなこと、ありえなかった。あんなに難しくて、あんなに求めてた事が、演劇を介する事でこんなにも簡単にできている。びっくりしている。


稽古期間中の玉置くんのこのツイート、すごくどきどきした。


そしてアフタートークで柿のメンバーが皆「演劇を取り上げられたら死ぬ」と言っていて。私自身もそれは間違いなくそう。
私はとりあえずは「客席」と言う場所から舞台に関わるという道を選んでいるので、演劇界からしたらただ1席を埋める人間でしかない。
けれど私にとっての芝居を主軸にしたすべてのものは、娯楽という側面を持ちながらも「生きるために必要なもの」になってしまった。
演劇を観るという事は、私が生きることに直結しているし、演劇を観るのを辞めてしまったら元の陰鬱とした自分になってしまうと思う。
でも、そういう気持ちを持って作品を作って表現している人達は絶対にいなくならない。
そのために私が出来る事は、1席だけれど客席を埋める事で、そしてそれが相互作用でお互いが「生きる」事につながってる。
あっ、これ、今、人と一緒に何か出来てる。って、強く思う。
だからこれからの日本の演劇界がもっともっと豊かになればいいと思うし、今10代で上手く社会にコミットできなくて燻ってる若い子達が自分の表現手段やコミュニケーションをとる手段として「演劇」に出会えたら、素敵な事なんじゃないかな~と思っている。
事実、10代の時の辛くて苦しい思いをしている自分が、あの時にこの作品を観ていたらきっと救われていたと思う。でも色んな事があったからこそ、今このタイミングでこの作品を観てこんなに泣けてるのだろうから、それはそれ。


「普通と同じ事が出来ない」人間を、認めてくれとは思わない。許してくれとかはもっと思わない。
人は人、自分は自分。だから生きるってとっても難しい。けれど「自分は自分もいいんだよ」「上手く生きられなくていいんだよ」「そういう人もいるんだよ」というのは、全部全部演劇が、それにまつわる人達が教えてくれた。
結果的に人と違う自分が大好きになったし、演劇をこんなに楽しめる自分はとても幸せ者だなと思っている。
演劇に出会うまで「いらない」と思っていたすべての自分の「大嫌いなところ」が、演劇に出会ったことで「大好きな強い武器」に変わった。
だから私みたいな気持ちを抱いてる人がこの作品を観たら感じるものがあるだろうし、逆に私みたいな気持ちはまったくわからない人がこの作品をみたら「こういう人もいるんだ」と思えると思う。
わからなくてかまわない、まったく問題ない。ただ、こういう世界があること、こういう人がいること、それを「知ってもらえたら嬉しい」かもしれない。


そういうような事を、つらつらと語っていたこのお芝居を観て、とっても嬉しかったし、逆に自分の姿を俯瞰で見せ付けられているようで辛くもあった。
セリフのひとつひとつにニコニコして、わくわくして、けれど悲しくて、切なくて、よくわからない感情は涙になって流れ落ちた。
演劇が好きだとか嫌いだとかじゃない。
「演劇を取り上げられたら死ぬ」ということ。そういう人がいること、そういう人がいていいこと。
それらを伝えてくれる、演劇愛がたっぷりつまった90分間を観る事が出来て、とってもとっても幸せ。


今まで頑張って生きて来てよかった。演劇に出会えてよかった。自分のことを好きになれてよかった。
そんな風に自分の人生を全部まるっと肯定してあげたいくらい、観ていて嬉しかった。
ありがとう柿喰う客。私は明日も舞台をお芝居を演劇を好きでいよう、そう思えた。
重いかもしれないけど、そんな感じ。