夢は座席で安楽死。

観る→考える→想う→書く。

【舞台】魔術

魔術

f:id:ka_ri_ng:20160412231838j:plain:w300
@本多劇場
2016年3月27日~4月10日

http://www.ktv.jp/event/majutsu/index.html

関西テレビ主催の中山美穂萩原聖人、橋本淳、勝村政信の4人芝居。
淳くんが久々の本多劇場だぞー!ということで告知の時からそわそわしていたけれど結局観に行ったのは東京公演の最後の最後だった。
概念的というか抽象的な作品を観に行ったときって本当に感想に迷ってとりあえずポエム綴っとくみたいなフシがあるから今回も例に漏れずそれ。

舞台に遅れてくる場合の態度について5分だけ真剣に考えた

当日わりと集中できなかった要因について折角だから話のネタにしてしまおうというコーナーからスタート。
当日、隣の席の人が遅刻をしてきた、まではまあよかった、んだけど入ってくるときに「すいません」って物凄い連呼してきて、良いから黙って席についてくれと言う気持ちが激すぎて、遅刻してきた時の客席につくまでの態度ってどういうのが正しいのかなとか観終わったあと凄い真剣に考えてしまった。
物語が進行してしまっている間に入ってくる場合は、なるべく静かに、なるべく姿勢を低くして、なるべく空気のように着席をしてもらいたい、頼む。
急いで会場まで走ってきたのはわかるんだけど、ロビーで一旦呼吸を落ち着けて貰いたいし、上着類はあらかじめ脱いでおいて客席にはストンっと座るだけでよい状態からスタートしてほしい。私も電車遅延とかで席に遅れてつかねばならなくなって死にたくなる事とかたま~にあるけど、絶対ロビーで深呼吸して無の状態になってから着席してる。集中して舞台観てるのに遅れて来た奴がぜえはあ言ってたらいやだろうみたいな、神経質かもしれないけれど、理由はどうあれ遅れて来た人間はそれくらい気を使わないと殺されても仕方ないと思ってる。
しかもその方は物凄く観劇慣れしていなかった。ので、着ていたダウンがシャカシャカとうるさかったし、水とか飲んでるし、お目当ての役者さんが出てくる度に前のめるから流石に簡単に注意をしたけれど最後まで直らなかったのでこの世のすべてのダウンジャケットを破いて回りたい気持ちになった。
全体の客層は開始から40分くらいで大分飽きていたというか世界についていけずにぼんやりしている人達が多かったなあと言うのが手にとってわかるレベルには結構皆落ち着きなくみていて、なんか本多劇場にしては不思議な光景だなとかいう風に途中から謎の達観が入ってしまってすごかった。悟りに近い。
結構飲み物を飲み始める人多かったし、バックライトがつくタイプの時計とか携帯で現在時刻を確認してる人が多くて、メイン客層に対して演目のニュアンスがかみ合ってないのかなあとは思った。それを考えられる部分があったのはまあプラスだったよなと無理やり思い込む事にしたいのでネガティブな話はこのくらいで。

感想以下の何かをぱらぱら

橋本淳くん、が、本多劇場にいる。というだけで嬉しいし、胸が苦しいし、ときめく。不思議なもので。
29歳なのに普通に大学生役がしっくりきていて、それが一番彼の魔術なのではと思った。
なんだろう、淳くんは年齢を重ねるごとに純粋さの演技がより一層純粋になってる気がする、年々と変にすれた部分が減っていっているというか、幼さが増しているというか。
それは勿論座組みによりなのだけれど、今回みたいに4人だけの芝居、しかも著名な大人(大人…?)3名と肩を並べていると、とっても「子供」というポジションが落ち着く。
それこそ中学生からみた大学生は大人だけど、40代からみた大学生ってまだ子供だよね、みたいなそういうニュアンス。

作品は高架下にある一台のおでん屋台を中心に女(中山美穂)、男(萩原聖人)、青年(橋本淳)、オッサン(勝村政信)の4人がああでもないこうでもないと会話をする1時間40分。
この舞台を観ておでんを食べたくなる勢と食べたくなくなる勢がいるようなのだけれど、私は間違いなく後者で、しばらくおでん食べたくないというか食欲不振をめちゃくちゃあおられる作品だった。
1時間を越えた辺りから気がついたらぼろぼろと泣いていたのだけれど、なんで泣いていたのかはよくわからなくて、でも多分「生きる」とか「死ぬ」とかそういう本当に概念的な何かに対しての言葉がぐわっと胸にささってしまったんだろうなというのと、突然この世界は全部自分の妄想だったらどうしようみたいな中二病の人間が一度は通る思想をこの年になって再び強制的に考えさせられて脳に酸素が行き渡らなさすぎてぐるぐるぐるしちゃって気持ち悪くなって泣く、みたいなそういう感じというか。
おでんと、あと自転車がしばらく怖い気がする。屋台もっとだめ。

「生きてる」とか「死んでる」とかいうそういう話への恐怖というよりかは「知らない間に自分だけ魔術にかけられて1人取り残されていた」という事と「知らない間に自分だけ魔術にかけられて1人じゃないと思い込んでいた」というような事のぐるぐるとした会話が、あれっもしかして私って今すごい孤独なのかもしれない、このちょっとおかしな事がたくさんおきる順風満帆な毎日はもしかして私の空想の世界なのかもしれない、私ってもしかして1人なのかもしれない、この後劇場を出たら何も変わらない下北沢が広がっているけれど世界の中で私はぽつんと取り残されてるのかもしれない、みたいなすごく意味のわからない恐怖に襲われてその辺りで泣いていた気がする。やっぱりよく思い出せない。

なんだろう、会話のキャッチボールはある種カオスに近かったというか、噛み合ってなかったり、よくわからなかったり、同じことを繰り返していたり、突拍子もないワードが飛び出たり、とかそういう言葉のやり取りが続いてるのに、1つ1つのワードがリアルだったというか、話の内容がリアルだったというか、物凄く「想像力をかきたてられる」言葉の数々だった。
おでんの汁がどれだけ煮えたぎってるのかという話だとか、「内回り」という言葉だけなのに頭に山手線のあの混雑したホームが浮かんだりだとか、何かのケンカの拍子にリビングに倒れている女性の様子だとか、放置されて山積みにされた自転車だとか。
その「現実じゃ起こりえない会話」なのに「現実の1シーン」が鮮明に頭の中に写る、というこの噛み合わない気持ち悪さもあったかもしれない。というかそれが一番気持ち悪かったのかも。
この作品の中でしきりに「魔術」という単語が用いられて、何が魔術なのか、と互いに問いかけあっていたけれど、この言葉遊びみたいな、記憶のフックになる単語の羅列みたいなのが、私にとっては魔術だったかもしれない。

あとこれは淳くんを観に行ったからと言うのが大きいけれど、彼だけどこか蚊帳の外というか、他人事というか、話の主軸にいないのが好きだった。
彼がおでん鍋の中に手を突っ込んだ瞬間のあのくだりがとてつもなく怖くて、心臓をぎゅっとにぎりつぶされそうになった。なのにその数十分後には「すごく熱かったですよ」とケロっと言ってくる、そっちの方が怖い。
死ぬっていう事は、あっちの世界に行くっていう事は、おでんの鍋の底に沈むという事と同義なのかな~とか、おでんの熱い鍋に手を突っ込むということは、山手線のホームに飛び降りるのと同じようなことなのかな、とか、そういうあれこれがぐるぐると回っている。
「物凄く痛い体験」って痛いのかな?みたいな事まで考え始めてしまって、例えば電車に轢かれて命を落とす人って痛いって感じるのか、とかそういうこと。
おでんの鍋に全身突っ込んだらそりゃあ熱いんだけど、試すことなんて出来ないし。でもまあこれに関しては致死量ではないから普通に熱いか。
食べることというのは生きることと同義で、でもこの作品の中でおでん鍋が食べ物としてあまり扱われていなかったから、「食べること」とか「食べ物」に対して否定的なイメージが強くて、それで余計に生きることに対して否定的になってるように感じてしまったのかも。不思議。
カレーが青色だと食欲を失うみたいなのと同じで、手を突っ込むか突っ込まないかって言われてるおでん鍋に入ってる食べ物に対して物凄い食欲失うよね、あんなに口からビールはかれたらまずそうにしかみえないよね、みたいな。
生きるための行為であるはずの「食べる・飲む」があんまり楽しそうに見えないから、彼らが本当は生きていたとして、死んでいたとして、やっぱりなんか生きることにどこか否定的というか背を向けているというか、そういう印象を受けたのかも。自分でも書いてて何言ってるのかちょっとよくわからない。


「北国行きで」をひたすらに聞いたところであの時に本多劇場の椅子の上で感じた気持ち悪さは戻ってこないんだけれど、なんだか繰り返し聞いてしまう。
ここまで書いたら、ちょっとおでん食べれそうになってきた。でもそろそろおでんの季節ではないな。