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夢は座席で安楽死。

観る→考える→想う→書く。

【ひとりごと】100を振り返っていまいちど

ひとりごと

なにやらこのブログのエントリが100を迎える事になった。
2015年の4月にはじめて100エントリと思うと、多いのか少ないのかはよく解らない。
舞台の感想、考察、その他自分が思うこと、などなど、いろんな事を発信してきた中で、100エントリ目にどの舞台の話をしようか考えていたら感想を書きそびれたものがいくつか出てしまった、アホである。
記念もクソも無いのだが、改めて「ブログをはじめてよかったな」と思ったので、じゃあなんで今そう思うのかという事を書いて100エントリ目として、ここからまた歩いていこうと思ったので、そういう振り返りをしようかなと思う。

ブログをはじめたきっかけ

今の演劇業界…それを飛び越えていわゆる「表現の場」において、「自分には合わなかった」という感想がいつの間にか「タブー」とされているのがとにかく気に食わない。
「合わなかった」のは「作り手の否定」ではなくて、ただただ単に合わなかっただけなのに言いづらいのは何故なのだろうか。
SNSが発達して、作り手側や演者が舞台を観に行った時の「ああこれ絶対面白くなかったんだな」という「面白かった」という感想が苦手すぎて生き辛い。
「褒められた方が嬉しい」というのはわかるけれど、何故こだわりをもった表現者なのに、そんな言葉狩りにあって大人の事情で正しく評価の言葉を発せないのだろうかと。それを抑圧する上の人とか、偉い人とかは一体なにを考えてるのかがまったくわからない。

あとは、公開のリプライ用のアカウントで好きな役者さんに「舞台本当~に最高でした!」みたいなリプライを送っておきながら、鍵のかかったアカウントでは「いやあつまんなかったわ」みたいな事を書くファンもごまんといる。それは、意味がない……と、私は思っている。
勿論「応援する」という事は、相手の明日の活力になるような言葉をかける事であって、本人に向かってボロクソ言えという事ではないのだが、向こうもプロフェッショナルとしてやっている以上「お世辞の感想」を与えた所で一体何になるのかが私には理解が出来ない。
むしろそれは馬鹿にしてるのではないかというくらいの考えをもっていたりもする。ただ、勿論そういう言葉を選択するファンの気持ちはとてもよくわかるから否定をする気はない。


私は面白いものが好きだし、素敵な役者さんが好きだし、目の肥えたお客さんも大好きだ。
だから自分が好きだと思う人たちが好きなものを見てもっと感性を養いたいし、沢山の素敵なものに出会いたい。
けれど世の中お世辞と上っ面の感想に溢れていて、何がより素敵なものなのかがわからなくなってしまった。
「物凄く大人気の舞台でチケットが取れないんだよ!キャストもとっても豪華なの!!」と言って連れて行かれた客席で「あれ、私合わなかったな」と思った後に、客席でも似たような声を聞いたりして、けれどSNSでは賛辞の言葉しか見当たらない。皆、「悪い」を声に出さないのだ。
それで結局ハズレだったなあと思ってやるせない気持ちになったまま帰宅するのは、もう嫌だなと思った。

その風潮はなんとかならないのかなあと兼ねてより思っていて、けれど他人を変える事はとてつもなく難しい事だと解っていた。だから「自分でやる」ことにした。
「自分でやる」ことによって、そういう風な発信をしていいんだなと思う人が出たら広がるかもしれないし、誰かの勇気になるかもしれないし、まあずっと私1人かもしれないし、そんな事はどうでもよくて、「嫌なら文句言ってないで自分でなんとかしろ」が信条なので、ただただその信を曲げないために「自分でやる」のが大切だと思い、どんなに辛口だと言われようと、広報が客のフリしてると言われようと、私は私のまっすぐな言葉で「面白かったものは面白い」「合わなかったものは合わない」という発信をしたくて、まずはTwitterを開設した。
Twitterのアカウントを開設したのはブログをはじめるよりも前で、匿名で「エゴサされる前提」のアカウントが欲しかった。何かというと、たまごアイコンのポジティブ意見版みたいなやつ。勿論思った事を言うのには変わらないのでポジティブではない意見もあるのだけれど「憂さ晴らしの当て逃げ」みたいなアカウントになるのは避けたかった。
リプライを飛ばす事もあったが、勿論その場合は否定の意見は述べなかったし、けれど逆に言えば「べた褒め」もしなかった。


ちなみに、何故匿名がよかったかというと、「このアカウントが誰か」というのがわかると相手からの心象が変わってしまうと思ったからだった。
たとえば、「浦島太郎」の舞台に、乙姫役の子のファンの私が観劇に行ったとする、しかし浦島太郎役の方の演技が余りに酷かった。その事を「乙姫役のファン」と書いてあるアカウントで発信するのと「それを記載していない」アカウントで発信するのはわけが違うと認識していた。
人間は否定されるとかならず自己を守る理由をつけようとする。浦島太郎役の人に「ああ乙姫役のファンだったからそう見えちゃったのかな」みたいな逃げをしないで欲しかった。観客の感想にまっすぐ耳を傾けて欲しかった。
そのためには、こちらのパーソナルデータがなるべく割れない方がよいと思っていたからで。
ちょっと違う話なのだけれど、かつてAskでこんな回答をしたことがあって、この感覚はいつだって変わらない。
ask.fm


そんなこんなを続けている内に、2015年にこのブログをはじめるキッカケとなる「デスノート」のミュージカルと出会うことになる。
この舞台との出会いによって私の人生は大幅に変わったと言っても過言ではないと思う。
私は元々長文を書くのが大好きで、なので実はTwitterがあまり向いていないのも自覚している。140字で表現するには自分の感情を上手く表現できず、それゆえに誤解を招くという事が多々あった。
なので「交流用アカウント」をその時に熱をあげている場所で作った所で疲れてしまってすぐアカウントを消していなくなってしまう。ゆえにこのアカウントたちも「お友達を作って仲良くお話しする用」だとは思っていない。
勿論話をする分には楽しいし、けれど閉ざされた閉鎖空間でそれらをやりたいのではなく、私はもっと色んな、自分の顔も知らないような人たちとディスカッションや交流がしたかった。
けれどそれをやるのに勇気がなく、今ひとつ自信が持てず、一歩踏み出せないでいた所に背中を押してくれたのがデスミュだった。

デスミュとの出会いによって、私の中に埋もれていた色んな感情がむくむくと疼きだし、黙っている事が出来なくなった。
そして140字では到底足りない脳から直接もれ出てくる言葉、言葉、言葉の数々をとにかくひたすら文章に綴った。それを発表する場が欲しかったのでこのブログを作った。というのがいきさつである。

ブログをはじめてからのこと

劇場に行く、新しい事を知る、文章にする、そしてまたクリアな頭で劇場に行く…という繰り返しをしていくうちに、1人、また1人と私の文章を読んでくれる方が増えた。とても嬉しかった。
今、このブログの読者は92人いて、Twitterのフォロワーは850人を越えた。「たったそれだけ」と言われてしまえばそれだけかもしれないが、今までは1人で壁打ちをしていただけなのに、読んでくれている人がいるのだ。私にとっては物凄い数字だ。

さらに嬉しいのが、私は客なので「私もその意見でした!」という事を言ってくれる人もいれば、「えっ、この感想は違うかも」と異なる意見を提示してくる人もいる。
そう、これだ、これを待っていたのだ。
私の中では私の意見が正しい(というのも変な表記だが)と思っているが、別にそれが世の中全ての正解だとは思っていないし、世の中皆にそうだと思ってるからブログを書いている訳ではない。
なので私の意見に対して賛同してくれる人だけが読んでくれたらよいとは思わないし、むしろ違う感性の人に読んでもらって、その人からの意見やアプローチが欲しかった。
そうすると自分の感性だけでは拾い切れなかった新しい感覚を知ることになり、私はまた一つ視野を広げる事が出来る。これ以上うれしい事はない。
私の頭は1つしかないので、私が生きてきた環境を踏まえた上での「私の感想」しか思いつくことが出来ない。けれどそれをまったく別の人生を歩んできた人による「別の視点からの感想」を知ることができるのだ。文明は便利だ。

ただ、今のSNSが発達した世界での嫌な所だと思うのだけれど、綺麗に自身の意見を述べた上で「私は違うと思ったな」と言ってくれる人は大好きだ。けれど上手く言葉を伝えられずに感情論で「それは違う」と否定をしてくる豊かではない人たちが大勢増えてしまったことだ。
これを私はとても嘆いているし、悲しんでいる。
「他者の感性を否定する」という事は、「自身も誰かに否定される恐れがある」ので、私としてはあまりやりたくない。むしろ他者と感覚が違って当たり前のはずなのに、何故それを否定してしまうのかはよく解らない。
「それは私の意見と違うな」と思ったら、自分なりの考えを長文でぶつけてきてくれたらいいのに、どうしてもそれが出来ない人たちは単的な暴力的な言葉、あるいは大多数で鎮めようとする。そんなのはナンセンスすぎる。


世の中には赤色が好きな人もいれば、青色が好きな人もいて、黄色が好きな人もいる。
「赤色が好き」と言ってる人に対して「いや赤色が好きってありえないでしょ(笑)」と否定する人がいれば、「青色はちょっと苦手かな」と言ってる人に「いや青色悪く言うとかどういう神経してるの!?」とか突っかかってしまう人もいる。
そんな事ありえるのだろうか……と思いながらも、実際世の中はそんな人で溢れているのだ。悲しすぎる。
私がやりたい事は「赤色に興味がない人」に「赤色にはこんな魅力があるという事を伝えたい(無理強いはしない)」のと、「黄色が余り得意ではない自分」に「黄色をとても大切にしている人からの意見を吸収させる」事である。
そうすれば双方の視野が広がり、こちらの感性も豊かになり、また新たな角度から楽しむ事が出来る。これほど豊かな事はないと思う。
ただしそれには距離感が必要で、「赤色を見ると具合が悪くなるアレルギー」を持っている人に赤色を押し付けてはいけないし、「黄色に親を殺された」人に黄色が正しいといってはいけないのだ。そこを間違えてしまうのは、あんまりよろしくないので気をつけている。


娯楽とされるミュージカルや、自己表現とされる演劇、もう、その辺りの線引きは私にとってはなんだって構わないのだけれど、とにかく「向こうが魂を込めて作っている」のであれば、こちらとしては「嘘偽りのない受け取ったもの」を提示するのが誠意だと、いつもいつでも思っている。
肯定的な意見を持った時はとにかくどこが好きだったのかとか、こういう作品に出会えた喜びだとかそういうものが届いたらよいと思っているし、逆に否定的な意見になるときは「こういう風だったら私は好きだったかもしれない」という広がりもかならず考えるようにする。
ベタ褒めするのは簡単で、けれど「何がよかったのか」をきちんと伝えないとただ盲目的に褒めているだけの薄っぺらい言葉になってしまう。相手のこだわりを見抜いた上できちんとそこを評価したい。
同様に他人を否定するのは簡単で、けれど「だったらどうなっていると自分は納得したのか」まで提示しないとフェアではないというか、自分の中でも理由がわからなくて気持ちが悪いし、相手にとっても否定されっぱなしで気分が悪い。
あとは私の好きな作り手さん達は、誠意を込めた「合わなかった」という言葉に対して、「見る目がない」とバカにしたり、見なかった事にする人たちではなく、それらの言葉を咀嚼して次回以降の糧にしたり、「こいつにはわからなかったのか!悔しい!」と思ってさらによい作品を作る事に熱を上げてくれる人たちだと思っている。
だから「つまらない」という5文字の言葉で片付けるだけでなく、それをどうやったら発展させていけるかという自分のためにもこのブログは続けてきたし、そうやって「異なる意見の人とディスカッションする」という事もお陰様で出来ている。

また、この大エゴサ社会でエゴサされない訳がないと思っている。それと同時にただしそんなにアテにされてないだろうと思ってもいた。わりと自分の事は過小評価していた。
けれど嬉しい誤算として作り手側からも評判がよかったり、参考にしている、という様な言葉をかけていただける機会が多くなった。
あくまでも「客」の私に対して伝えられるなんらかの方法でレスポンスが返ってくる、たったそれだけの事だけれど、それは物凄い事だし、とても暖かくて素晴らしいのだ。
「自身が感銘を受けた作品に対して、自分が誠意を持って込めて感想を届ける」というまでが1ターンのやり取りだと思っている。
けれどそれに対して「作り手側が再度こちらにレスポンスをくれる」というのは、とてつもない光栄の極みでしかない。
先日もそういった事が立て続けに起きて、それだけでもこのブログやTwitterを続けてきてよかったなと思えたし、これからも続けていこうと思っている。

これからについて

これは、概ね変わらない。
このままTwitterで独り言を吐き出して、たまに人さまとやりとりをして、長い文章はブログに書く。それだけだけど、それでも自分にとって「長く続ける」事は難しいと感じていたのに100エントリまでいったのだから、だったらもうこのまま突き進んでいくしかないなあ、だって楽しいんだもん、という感じ。

ただひとつ運用をはじめてから異なった事は、「私の存在が匿名ではなくなった」という事だ。
リアルに存在している「私」という存在が「かりん」であるという事を多数の人が知っているし、このブログやTwitterの言葉を綴っているというのもその人物である、という事実を知っている人が沢山になった。
正直それがネックになってしまって自由に発言出来なくなるのでは?という恐れもあったのだが、新しく色んな人と「直接お話してみたい」という気持ちもあったし、嫌われたくないからと怯えて身元を隠すのは何か違うなと思ったし、後は何より「レッテルを貼られる不安」というのがなくなった。自身の言葉を信じられるようになったからだ。
もしそれで「この人はこうだからこういう意見なんだな」と捉えられてしまう事が今後あれば、もっと自分の言葉を磨かなければと思わされるだけで、日々精進していくしかないなと思っている。

SNSを通じて出会った方達も沢山いるし、日々出会って話をする人たちも沢山いる。
けれどこのTwitterとブログはあくまでも「視野を広げるよう」に行っているものなので、「交流」を基盤としていない。
一時期それがブレてしまって交流用になってしまったら、案の定アカウントを消して逃亡しようとしかかったのだが、ふんばって、「このアカウントにおいての適切な距離感」をきちんと説明させて頂いた上で、再び交流が主ではない運用に戻している。

それもあり私は基本的に「各ジャンルごとにリストにいれてツイートを見る」という事をしているので、場合によっては「なんだこいつお高く止まりやがって」と思ってる人もいるとは思う。
けれどそれをしないとキャパの小さい私にはそれが限界なのだ。鍵つきのアカウントで発信される「外には発信しづらい話題」が流れすぎるTLを見ていると、心が乱れてしまう。
なので基本的にはこちらからのフォローは現在も行ってはいないので、そこはそういうスタンスのアカウントなのか~と思っていていただければ幸いというか。
相互フォローにしないなんてフェアじゃない、みたいな価値観も今は生まれているけれど、そもそもSNSの使い方は「メルマガを読む程度」だと思っているので、なんらかの手段で相手の言葉が読めればそれで問題ないし、「相互フォローだから仲良し」みたいな価値観も特にはない。
自分に関わってくれる人は総じて皆大好きだし、自分と異なる意見を教えてくれる人もたまらなく大好きだ。
ただ、自衛の為に情報のインプットの方法を選択しているだけというか、そんな感じである。

そんなニュアンスなので交流がゼロではないので、メンションが来たら嬉しくリアクションするし、自分自身も遠慮なくメンションは飛ばしている。
DMを頂いた場合も普通に返信するし、ご意見を頂戴した場合も「相手に歩み寄る意思」がある場合は必ずお返事させて頂いている(ただ難癖をつけたいだけのものや、あまりにも礼儀がなっていないものは申し訳ないのだけれど見なかったことにさせて頂いているのであしからず)。
たま~~~に私の事を高く評価してくださりすぎて「まさかリプライいただけるなんて!」みたいな事を仰ってくれる方もいるけれど、別に私はただの1人の人間で、そこはある意味対等だろと思っている、ので、遠慮なくメンションを飛ばして頂ければなあとは思う。
とはいえ「お前いつから友達だったよ」みたいなノリのものにはやっぱりこれも反応しづらい旧世代のインターネッターなので、「相手の顔が見えないから」こその適切な距離感で、けれど自身の言葉にきちんと責任を持って発信を行っていけたらなあという感じの今日この頃。


考えている事を吐き出さないと死んでしまう自分がいて、かつ作品を通じてのコミュニケーションに可能性を感じている自分にとって、今この環境がある事はとても素晴らしい事だと思っている。
たった一瞬でも出会えた人には全て感謝しているし、これからも沢山の人に感謝をしていきたい。
やっと100エントリ、されど100エントリである。
これからまた200、300とエントリを重ねていくうちに、素敵な事が沢山起きていったらいいなと信じながら、振り返りはこのあたりで終わっておこうかと思う。

これからも沢山の人が自身の意見を遠慮なく発信できる世界になるよう。
私の気持ちが上手く作り手に届きますよう。
いつかこの言葉を紡ぎ続けたその先に、私にとっての「座席で安楽死」があるよう。

そんな祈りをこめながら、今後ともよろしくお願いいたします。


かりん