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夢は座席で安楽死。

観る→考える→想う→書く。

【舞台】プリシラ

プリシラ

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@日生劇場
2016年12月8日~29日

http://www.tohostage.com/priscilla/


アカデミー賞を受賞した映画「プリシラ」のミュージカル版が日本初上陸!
先日ラジオを聞いていた際に主演の山崎さんの宣伝があまりにも楽しそうだったので思わず劇場に行く予定を立てた。
2016年を納めるにはもってこいのド派手でファビュラスな世界観と衣装替えの多さに思わずひっくり返りそうになる2時間半!

感想ぱらぱら

当日のWキャストはアダムが古屋くん、ミス・アンダースタンディングがSHUNさん、シンシアが池田さんの回。

宮本亜門演出って、暗い時は死ぬほど暗いのに明るい時は死ぬほど明るいから物凄くびっくりする。今回はド派手でド明るくて、衣装も照明も大道具もハレーションを起こす位のまぶしさで、プロジェクションマッピングも上手く混ぜ込んで豪華さを増していた。
冒頭の入りが少し解りづらかったのと、全体的に駆け足な印象があったので、「豪華だったなあ」という感想が先に来てしまうのだが、ゆっくり後から反芻して噛み砕いていくと大事なメッセージが沢山あったので、それらをもう少しずつゆとりを持って説明してあげてもよいのでは?とかも思ったり。
ただ余りくどくど説明してしまうと、それこそ「あまり理解しがたい人たち」からすると重いのかなあともなるので、これくらいパーッと華やかでもよかったのかもしれない。難しい。一般大衆の意見がわからない。


今回の作品は「LGBT」をテーマに作られている、のだが。
基本的に私があまり「LGBT」というくくりに、プラスの意味で興味がないという事を先日ツイートした。というのも、日ごろの自分があまりにも「性別」というくくりに無頓着すぎる。
「誰がどういう風に生きて、誰をどう愛してもそれは個人の自由なのでは?」と考えて生きているので性別なんざどうでも良いと思っており、所謂「セクシャルマイノリティ」とされる人たちは一体何がいけないのかが1ミリも理解が出来ない。
自分が好きな人を好きに愛してるだけなのに、なんでマジョリティとされる人達から差別されて蔑まれなきゃならないのか本当にわからない。
……という感情があるレベルには「性別がどうでもいい」人類なので、この「プリシラ」がそもそもの「LGBT」という枠組みだからどう、という事ではなくて「LGBTとされる人の中でも個々に悩むことも考え方も違う」という事をきちんと描いているからこそ、この作品はここまで評価されているんだろうなとしみじみ感じた。
作中では「自分探し」と「マイノリティ」の2点がキーなのかなと思うのだけれど、ある種その2つは同一なのかなとも思っていて。自分が自分らしく生きられて、自分の愛したい人を愛する、という答えにたどり着ける凄くハッピーな作品だった。


今回の主役はティック(山崎育三郎)だったのだけれど、個人的にはバーナデット(陣内孝則)とボブ(石坂勇)の純愛ストーリーが物凄くよかったので、まずはその話をする。
かつて一斉を風靡した人気ドラァグクイーンだったバーナデットと、かつてそのバーナデットの「女性」の面に観客として恋焦がれていたボブが再開し、そして行動を共にする事になる。
記号上の性別として捉えてしまうと「おじさんとおじさん」のシーンなのだが、そんな事はなく、まるで初恋の甘酸っぱさが残るような「男女」のやり取りにしか見えなくてびっくりした。

作中でクイーン3人がボブの招待によりショーを披露しようとするも、ボブの内縁の妻であるシンシアにそのショーを乗っ取られてしまう。
街中の男達は、記号が「女性」であるシンシアに魅了され、3人のことなんてお構いなし。更にはそのシンシアが披露するショーは「出産」を彷彿とさせるような演出もあって「うっわエグい」と思いながら観ていたのだけれど、当たり前のようにメインの3人も傷つくわけで、そこで3人は自分たちが女性でない事や、子供が産めない事を再度考えたりする。
けれどボブはそこで「それでも自分にとっての女性はバーナデットだ」と愛を告白する。このシーンがめちゃくちゃ泣けてしまった。
入れ物や社会的に持つ記号など関係がなくて、ボブが愛しているのはバーナデットの「女性の心」であって、バーナデットもその真摯な気持ちに「女性として」応えていた。こんなに綺麗な純愛があるだろうか、と、本当に性別なんてどうでもいいと思いながらグズグズ涙を流した。


そして主役のティックの話。ティックはドラァグクイーンながらも妻子がいるという立場で、そんな彼が息子と対面するシーンがまた深かった。
「子供が作れないこと」を憂うアダムやバーナデットからすれば、ティックに息子がいる事自体驚きであるし、さらに「ティックが父親である」という事にも相当の衝撃が走る。
「息子の前では良いパパでありたい」と話し、自身のドラァグクイーンの姿を隠そうとするティックだが、そんな彼女達が披露するショーを息子のベンジーが隠し見ており、終演後の楽屋へと姿を現す。
純粋な子供の目線からみて、自己が嫌悪の対象になるだろうと決め込んでいたティックは「とてもおかしかった(面白かった)」という言葉に心を打たれる。子供って、強いなと思った。


役者面で言うと、Leadの古屋敬多くんの圧倒的存在感に度肝を抜かれた。
褒めている、という意味で使用するのだが、ありえない程の「超ド級のあばずれ女」感が尋常ではなく、全身がちょっとガリっとした感じが、愛に飢えて自身を削ってしまうアダムそのもののように見えて、本当に「アダムが生きている」と思わされた。
演技力が凄いだとか、歌唱力が凄いだとかそういう事ではなくて、まるで今まで本当に「アダムとして生きてきた」かのように立ち振る舞う古屋くんに終始目を奪われてしまってびっくりしていた。
「古屋アダムがいたら絶対好きになる」という確信を持てるほどに魅力的だったので、むしろ今後普通の時の古屋くんを観たら混乱しそうな勢いである。


そんな感じで、ドラァグクイーンをやっていても心が男性の人間もいれば、心が女性の人間もいる。男性として男性を愛している人間もいれば、女性の気持ちで男性を愛している人間もいる。勿論他もしかりで愛の形は本当にさまざまだ。
そんな彼ら、彼女らが「自分の道」と「自分の愛」をきちんと見つけ出して、「恋人への愛」「友人への愛」「家族への愛」というものをがっつり描いていて「正解はひとつではない」と提示していたのは本当に素晴らしかった。ので、あと30分くらい尺があってもよかったのかな~とは思った。
とはいえ衣装替えが22着との事だったのもあり、相当派手なパフォーマンスなのもあり、色々と制約もあるのかなあと思ったりなんだり。

社会におけるLGBTの扱いなども踏まえた上で、「LGBTであろうとなかろうと、自分が好きな人を好きに愛する権利」は全ての人類に平等に存在していると思う。
性別だとか、価値観だとか、そういう枠組みに捕らわれずに「愛」と「友情」を描いたこの物語を観られてとてもハッピーになりながら、脳の中ではドナ・サマーの「hot stuff」が鳴り響き続けている。

カーテンコールについて

今回のカーテンコールは特別に「写真撮影がOK(録画はNG)」とのことで、事前にハッシュタグ検索で画像を見ているとリピート組で一眼かついで行っている方たちもちらほらいらっしゃる模様。
基本的には「折角の舞台なのにカメラ優先になるのはなあ」という考えの持ち主なのだが、「日生劇場で一眼レフのシャッター切ることなんざこの先ないぞ!?」という好奇心の方が勝った事により一眼を持ち込んだ。
丁度先日壊れて本体を買い換えたばかりだったのでやる気満々でシャッターを切ってしまった。

客電もついて照明もはっきりとしてる中でも、事前にどこに誰が立っているか解らない&前のお客さんの頭や手が被る&結構距離がある&事前に設定とか調整できないというかなりの条件の中、わりとそこそこ撮れた気がする。
100-300mmの望遠レンズを持っていったのだが、1階のM列からは200mmあれば足りるかな~くらい。むしろ100mmだと全景が入らなくて集合ショット撮れないでやんの。
こればっかりはGC階のセンターから撮りたかった人生だったが、写真を撮影しにいったわけではないので「なんとなくそれっぽいもの」が取れればOKということで満足。

撮った写真はこんな感じ。




撮影はやっぱり基本的には「オマケ」程度がいいなあ~と思いながらも、日生にカメラ持ち込んでいいという機会は滅多になかったし、新しい試みでよいなと思った。ファンがツイートなりなんなりしたら勝手に拡散されるし、それで私みたいなやりたがりがカメラ持ってまたツイートしたら完全にそれが順繰りになるし。
そういう意味でも色々と大盤振る舞いで華やかなミュージカルだったなあとしみじみ。

13000円は高いけれど、それでもそれ以上の価値があるものだと考えているので、来年も沢山ミュージカルを観に行こうと思う。来年のミュージカルはじめは「フランケンシュタイン」からの予定。