夢は座席で大往生。

観る→考える→想う→書く。

【舞台】絢爛豪華祝祭音楽劇「天保十二年のシェイクスピア」

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2020年2月8日(土)~29日(土)
日生劇場

https://www.tohostage.com/tempo/


ーーもしもシェイクスピアがいなかったら。
私は今ここで観劇を趣味にする人生を送っていなかったかもなあ。

観劇までのあらすじ

わたし、「凪のお暇」原作の我聞慎二くんが大好きなかりん!
ドラマ化されるって事で見てみたら、我聞くん役の俳優さんがよすぎてノックアウト!!
この人だあれ!?鈴木拡樹のお兄ちゃん!?!?

ふーん、高橋一生って言うんだぁ~!
えっっ!?この人舞台役者なの!?そんなの1回生で観なきゃダメじゃーん!!!
えっっっ!?!?2020年に主演舞台がある!?
浦井くんもふうかちゃんもいて、音楽・宮川彬良/振付・新海絵理子!?!?
そんなの行くしかないじゃーーーーん!!!!

あれっ!?こんなところにチケットが!!!
ちょうど休み!?ど、ど、どうしようー!
わたしたち、これから一体どうなっちゃうの~!?!?


※ドラマお暇は後半我聞くんのキャラ崩壊が酷くて最終話を見てないので一体どうなったかわかってないのはこっちである。

戯曲と演出について

ここ最近感情をバリバリにやられる演目ばかり観ていたので、今回は正しく他人事というか、誰かにめちゃくちゃ感情移入するでもなく、自分の価値観を考え直すでもなく、「劇場に行って観劇した」と言う言葉が綺麗にハマった。

キャストが全員上手かったし(シンプルにお上手というのもあるし手練れていたというか”作品”を作っていたのが素敵)、脚本も演出もなにもかも文句がなかったので物凄くスマートに「いいものを観た」という感想が出る。


内容についても、基礎教養があるから楽しめた部分もあるとはいえ、何かを難しく考えながら観ていた訳ではないからとにかく無責任でいいし、エンターテイメントとして吸収する3時間35分と言うところだろうか。
小難しいとされるシェイクスピア作品を適当に鉈でぶったぎってミキサーにかけたことで、こんなにも大衆的になるものか~と感動する。

天保水滸伝の世界に、シェイクスピアの37作品を無理やりぶち込んだこの戯曲。
シェイクスピア作品はロミジュリと夏夢をしっかり、その他有名どころをつまみぐいした程度なので、超一級シェイクスピア検定試験のこの作品でどの程度元ネタが解って笑えるかなーと心配していたけれど、めちゃくちゃ面白かった。


一番のベースがリチャード三世、そこにリア王とロミジュリが入ってきたかと思えば、ハムレットマクベスが顔を覗かせる。
そこに更に他の作品の要素が入ってくるのだけれど、「わかる!!!!」となりすぎて凄かった。

うわき草が出てきたら夏夢だし、生きるべきか死ぬべきか悩みだしたらハムレットだし、男女がすれ違ったらロミジュリで…というこの感覚をいつの間にか植え付けられている私にとっては手を変え品を変えでそれぞれ元の作品を繋ぎ合わせているのだが、そのつなぎ合わせが見事で、突然オタク用語で語ると、シェイクスピア作品のクロスオーバーオールキャラ和パロ同人誌と言うと伝わる人には伝わるやつですね!!!

シェイクスピアあるある(?)の「大人達は自分の都合で嘘つきがち」「騙された若者死にがち」「見つけた恋人後追いがち」の3点コンボがキマっていたのも最高。
あと中盤の「to be or~」の訳詞の歴史の台詞楽しすぎたから、あそこもう一回見たい、DVD買うかなあ。


そんな風にシェイクスピア戯曲への知識も愛も皮肉も全てふんだんにつまっているこの戯曲を、藤田俊太郎がポップな演出で魅せてくれた。
藤田演出にぴったりな宮川彬良楽曲もこれまた本当に素晴らしく、どの曲もどのシーンもきらきらと輝いて、もしくはどろどろと汚れて見えた。相性が良すぎる。
どの曲もスッと耳に入ったかと思えば、物凄く耳に残るし、言葉も、シーンの作り方も、音も、どれもどれも調和していてたまらない。

さらにそこに加え新海絵理子振付のダンスが入るので、どれもこれも情報量が軽やかだ。
こんなに小難しく語られるシェイクスピアの作品たちを、個性的かつ脳みそに届きやすい情報として発信し、それぞれの情報が喧嘩をしていないどころか相乗効果でよりよい形で届けられる。
ああ、これが沢山の人達によって作られる「演劇」なのだなあと思わされて胸がジンとなる。


冒頭、中盤、そして最後に登場する「お客様の想像力のお陰です。」というこの台詞がとても好き。
素晴らしい演劇というものは、優れた戯曲があれば、優れた演出家がいれば、優れた役者がいれば、優れたプランナーがいれば出来上がるものではない。
それらに加え、きちんとその意図を掴み、噛み砕く、優れた観客がいることによって、発信と受信があることで「全員で作り上げる」ものだ。と、常々思っている。

つまり、この素晴らしい世界は舞台上と客席の相互関係により成り立っているものなのだなと思ったら、ゾッと背筋が震えたし、嬉しくて尊くてたまらなかった。


舞台終盤、三世次が今まで殺してきた人物達が亡霊となり背後に現れ(このセットがJr.マンションみたいで面白かった)、何を語るでもなく亡霊たちはそこにいる。
その後、三世次の姿を写す鏡を使う演出があるのだが、これが客席を写し出すのもまた面白い。

私が観た席は鏡が写らない位置だったのだけれど、センターから観ていたら確実に「写った客席をバックに喋る三世次」という図が綺麗に見えただろうから、このアイディア素晴らしすぎる。
客席さえもセットの一部にして、観客を傍観者にするのか当事者にするのか、それが問題だ!!!という気持ちだった。


最後の最後、ぐっっっと物語に飲み込まれるのだが、絶対に最後叫ぶのが解っている「馬を持ってこい!!!」という台詞を叫んだ瞬間、三世次の悲劇は作品のパーツとして消化される。この瞬間がたまらなく面白かった。

それまでは少しばかり「三世次の物語」としてストーリーに呑まれていたのが、途端に「そうだ、この作品はシェイクスピアのパロディで、この三世次もパーツでしかないのだ」とどこかフッと「観劇している自分」に引き戻される。
この現実と虚構のミックスや緩急の付け方が本当に上手かった。
だからこそこの作品に飲み込まれることなく、飽きることなく、長時間の観劇をする事が出来たのだろう。


そこからの「はい!お芝居は終わりましたよ!」と言わんばかりの、ポップでカジュアルなカーテンコール。
出演者全員がお化けの三角布をつけて楽しそうに「もしもシェイクスピアがいなかったら(リプライズ)」を歌うのだが、これがもうたまらない!!!!

演劇が好きじゃなかったら書けない戯曲を、演劇が好きじゃなかったら作れない演出をつけ、演劇が好きじゃなかったら出来ない演技をする。
すべてがピタッとハマった時に、こういう素晴らしい演劇作品が出来るのだろうなと思った。


とてつもなくいいものを観た、ありがとう高橋一生!!!!!

キャストについて

さて、そんな高橋一生ですけども(?)。
予想よりはるかに素晴らしい舞台役者でビックリした。

空気の掴み方、間の取り方、"そこにいる"と言うことそのもの、それらすべてを計算してるというよりかは、本能的に解っていて、その場その場における自分の立ち位置や魅せ方を完璧に理解し、その上で出すぎるでもなく、周りを潰すでもなく、その世界観にきちんと溶け込み、「物語を演じている」のが素晴らしかった。

舞台で演技をする才能を与えられてる側の人だ!!!!と本気で思った。
「作品の中で呼吸をする」というこのが天性的に出来るタイプって中々いないじゃないですか、それだよそれ。

舞台上の空気も、劇場まるごと含めて全部掴んでいるから、ここぞという時の魅せ方があまりにもうますぎるし、最後のシーンは鳥肌が立ちっぱなしだった。
あと、バランス力もしかりだけれど「高いところにいる」と感じさせない飄々とした立ち振る舞いや、急に気配が消えたかと思えばパッと目を引くあの切り替えも素晴らしかった。

舞台の人はやっぱり舞台で観てみないと解らないものだし、舞台の人ならば舞台で観たいのよ!!!!観てよかった!!!!
次また何かあったら観に行きたいな~。


久々の浦井くんは相変わらずパッパラパ―のトリッキー王子が似合うな~と思ったし、フライングでツーナイトツーナイト歌わされていた(ここでめちゃくちゃ笑ってしまった、もう日生でよくないかWSS)。

これまたお久しぶりのふうかちゃんと恋仲の役だったので、「幸せになった和風パラレルデスノートだ!!!」とかよくわからないテンションになってしまった。
ふうかちゃんはすっかり「女の子」から「女性」になっていて、けれど相変わらずかわいいし、透明な歌声が素敵!


そして誰より素晴らしかったのが、木場勝己さん。
いや~~~この人がいなかったらこの作品こんなに締まってなかっただろうな…。
それぞれのセクションの人間が(いい意味で)自分達の力を100出して暴れているところを、語り部の木場さんが現実に引き戻したり、茶々を入れたりする、このバランスが最高だった。
ストーリーテラーの存在って本当に大事。


出演している全ての役者が本当に素晴らしかったので、本当によいバランスでこの作品は成り立っていたと思う。

決して楽しいだけの「祝祭音楽劇」ではなく、観て考える事は色々あるけれど、それでもやっぱり「楽しい観劇体験をした」という気持ちが一番なので、それで良い気がした。

いやーーーー!!楽しかった!!!

誰かの作品を元にクリエイトするということ


今回の作品は、そもそも井上ひさしが「シェイクスピアを題材にした戯曲」を書いていて、それを再び別の人間が演出している。

この戯曲がそもそもシェイクスピアへの愛や敬意に溢れていて素晴らしい上に、この戯曲を演じるにあたり、今回のクリエイター陣のこの戯曲への愛も素晴らしくて、その連鎖に感動した。


パンフレットに掲載の井上ひさしについての語りと重複してしまうが、シェイクスピアの作品をきちんと紐解いて、理解した上で新たに組み合わせなければ、この戯曲を書く事は出来ない。
それくらいに様々なものが緻密で、大胆で、しかしどこをとっても正しく「シェイクスピア」で、これは付け焼刃の知識や、生半可の覚悟では作ることは出来ない戯曲だ。

そんな風に作られたこの戯曲に対し、今度は演出の藤田俊太郎や音楽の宮川彬良が、多大な敬意を払って作品に新しい色を乗せていく。


藤田さんの演出は、きちんと細部まで戯曲を読み込んでいるからこそ、そして作る中で新しい発見があるからこそ、届くべきメッセ―ジや、お遊びのユーモアのバランスを解った

彬良さんの曲もまたそれと同じで、どの楽曲も彬良さんらしい遊び心とメロディラインで、けれどすべてのシーンにバチッとはまる最高の楽曲の数々だった。
様々な音楽ジャンルに精通しているからこそ、「このシーンにはこういう楽曲を」と、沢山の引き出しの中からその場その場に最適なものを選んでいるのが解る位に、あまりにも全ての曲がしっくり来すぎる。


パンフレットに掲載されている、この2人のインタビューを呼んだら思わず泣いてしまった。
井上ひさし戯曲への信頼と敬意、そしてこの作品に関わるからこその責任や意気込み、そして何より愛情。

どれだけこの戯曲にリスペクトがあるか、どれだけこの戯曲を盛り上げようとしているか、それらが全て伝わってくるほどだった。
演出をする才能や、楽曲を作る才能だけではなく、そういった信頼と愛情があるからこそこんなにも美しい作品が作り出されたのだろうな。

誰かが作った作品を、誰かが愛をもって参考にし、そしてまたその作品に愛をもって別のクリエイターが構築すると言うこの連鎖が美しかった。


「流行ってるから軽卒にネタにする」とか、「今話題だからパロディをやる」という手法は、手軽にウケるし簡単な事だけれど、ここまで緻密に計算された愛を観てしまうと、こうやって入念に作り上げたものをもっともっと観てみたい!と思わされてしまう。
もちろんそれらが悪とは思わないし、必要な手法でもあるし、スパイス程度に用いるのであれば有効打だと思う。
ただ、やはり「いいものを観た」と心から思わされるものには、裏付けや知識が必要だなと痛感させられた。


”入念に作り上げられること”の原動力は決して愛でなくてはならないわけではなくて、憎しみやアンチテーゼでも構わない。社会風刺だって勿論そう。
けれど、それらだってやっぱり沢山の知識と、大きな感情により構築されるから、素晴らしい作品となるのではないだろうか。

この「天保十二年のシェイクスピア」も、それまでの堅苦しいシェイクスピア作品上演に対する挑戦であり、ある意味のアンチテーゼであり、揚げ足とりでもあり、けれどこんなにも愛情いっぱいに紡がれている。
そういう何か、一本しっかりした己の主張というか、そういったものがあると作品の質はぐっとよくなるのではないのかな。


適当に聞き齧った知識で他者が作った作品に触れることや、本質まで掘り下げず簡単に他人のふんどしで相撲を取ることは、簡単だけれど、どうしたって薄っぺらくなる。
誰かが作った作品に触るということ、そしてそれをネタにするということは、覚悟と責任が必要だ。

自分の中でその一線はどうしても大事にしたいポイントで、そこが大事にされていない作品を観ると胸が苦しくなってしまう。
けれど、そうやって大事にしている哲学があるからこそ、今回こうしてそのハードルをしっかりと超えている作品に出会った時に、こんなに幸せな気持ちにさせられる。
自分の中の譲れないものがあってよかったと思わされたことが、今回得た一番大きなものだったんじゃないかな。

そんな覚悟も、愛も、誠実さも、すべてある上で、責任もって素晴らしい作品に仕上げてきた各プランナーにも拍手。
手間隙かけてしっくりじっくり作る。素晴らしいではないか。


そんなこの作品について深く触れているパンフレットの作りもとても面白いし、インタビューが充実しているし、それぞれのインタビュー内容も素晴らしかった。
沢山の職人たちに支えられていた本作を、観劇することが出来て本当によかった。

これだから観劇ってやめられない。

いやはや、演劇って愛だよな。

余談

観劇した日の夕食にて。

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「それが、問題だ。」