夢は座席で大往生。

観る→考える→想う→書く。

【舞台】ミュージカル「生きる」

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2020年10月9日(金)~28日(水)
日生劇場

http://www.ikiru-musical.com/

ミュージカル「フランケン・ノート」が日生で観れる!?!?これはいくしかねえ!!!!しかし!!!!!と、なんやかんや葛藤しながらも、無事に劇場に行って漏れなく感情をぐずぐずにされて帰ってきた。
行くか行かないか結構悩んだのだけど「行かない」を選択しなくてよかったなと心の底から思った。


観た日のキャストはこんな感じ。

渡辺勘治 市村正親
小説家 小西遼生
田切とよ May'n
渡辺一枝 唯月ふうか

作品について

告知があった時から「これは観たいメンツだ!」と思ったが、同時に「自分が確実に不得手な作品だろう」とも思っていた。なのでチケットを取るのを結構ためらってしまっていた。
事前情報とかプロモーションの仕方を見ると、どことなく家族愛の話だとか、観終わった後にほっこり胸が暖かくなる系の話のように私は受け取っていて、そして私はそういうジャンルを見ると物凄く心が辛くなる。極論ちょっと死にたくなる。なんでだろう、不思議。

どちらかというと1人のクソデカ感情によって沢山の人が死ぬけど本人的にはハッピーエンドでした!みたいな話を観ている方が生きる気力が湧いてくるのだが、意外とこの話はそれに近かった気がする。
その結果、私は物凄く尊い観劇体験をする事が出来たのだが、プロモーションって難しいな!!!

この話は「こだわり」と「物作り」と「それをした事による生の証明」の話だった。
だから演劇が大好きで、物作りが大好きな自分にとって、そして今現在この2020年の日本にいて毎日辛く苦しい思いをしている中で、自分の支えになる作品になったのは間違いない。なるほどね、だから初演の時にあんなに関係者が絶賛してたのか。今ならめちゃくちゃわかる。


一幕冒頭、幕が開いた瞬間に拍手が起きて、それだけで涙が止まらなかった。
演劇が上演されている、その場に立ち会えている、その事を喜んでいる人達がこんなにも沢山いる。それだけで涙を流すには十分すぎる。
私は、この空間に帰って来たかった。帰ってこられた。
呼吸がこんなにも簡単で、生きている事を実感するのが容易いのかという事を思い出し、驚きが隠せなかった。
その感覚さえも、とうに忘れてしまっていたのだ。


作中の全ての流れが、今の自分に必要な言葉だったり感情だったりして、ガチガチに固まって他者から干渉を受けないように防御体制になっていた私の心の隙間からスッと入り込み、「大丈夫だよ」と言ってくれていた気がした。
私の考えていない方向で、とても暖かかい作品だった。

誰かが生きて、そして死んでいく事。自らの生と死に向き合う事。
これは誰にも介入出来ない事のはずなのに、よく知りもしない暇な人間は、勝手に憶測でものを話し、噂をして罵り馬鹿にする。本人の事なんて理解しようともせずに。

けれど、自分の意思を貫いて自分のために行動した主人公・渡辺勘治の人生は紛れもなく眩しくて素晴らしくて、そして自らの命を燃やしてでも残したものに意味があると、こうして客席にいる我々が確認して肯定する事で意味を生む事が出来る。

彼が生きた証を、本人亡き後に好き勝手話す連中だって勿論いるけれど、作中にも、その作品を観ている客席にいる私達にも解っている事は沢山あって、そういう観測者のお陰で彼の人生をかけた《伝えたいもの》は、彼が一番伝えたかった光男に届いたのではないのかと信じている。

客席にいる人間は、傍観者であり観測者だが、確かに当事者である。
私が観測をする事で、この物語に意味が生まれ、作られた事が肯定される。その結果、自分の事も肯定してあげる事が出来る。
そう、この感覚が私の人生には必要不可欠なのだ。
半年以上ぶりに、それが出来たのではないだろうか。


宮本亞門演出って、なんでこうも寂しさや切なさを華やかに彩る事が出来るのか。これが天才と言われるものなのか?といつも疑問に思う。
そしてそこに照明プランがバチっとハマっていたので、照明家の佐藤啓さんの腕も素晴らしかった。
全てのカラーが眩しくて、けれど切なくて辛くて、心をぐりぐりとえぐられる。そんな照明。
時代背景を裏付けるようなノスタルジーな照明もあれば、「令和2年に作ってる演劇です!」と言わんばかりの華やかさの緩急が素晴らしくて、ステージングも合わせてずっと観ていたかった。
ステージングというかポジショニングがとても美しくて、あと盆が回っているかと思ったらセットが回っていたり机が動いていたりというのが面白かった。
市民課の机はあれはどういう動きなのか???役者陣がさばくのがうまいのかしら。


物凄く繊細で緻密で質のいいミュージカルを観た。簡単な感想にすればその一言になる。
けれど、それはまったく高尚ではなく、自分に寄り添ってくれて、今の自分に必要な言葉や感情を沢山与えてくれた。

これはやっぱり、劇場に行って直接観劇しないと得られない体験だよなあ!?…と、いう事を再確認出来たのもとてもよかった。
やっぱりね、劇場も観劇も必要なんだよね。それはどんな状況になってもしっかり自分の胸の中に刻んでおかないとならない。
それを思い出させて、骨の髄まで叩き込み直してくれる、そんな作品だった。


丁度RENTに気持ちがアツい時期なので、こんな事も考えたりした。



キャストについて

8日のRENTの製作発表を見て、村井先生の演技プランについていくつかツイートをしたのだけれど。


※ここからいくつか続いている。

 
村井先生、めちゃくちゃよいものを持っているのに取り扱いと組み合わせがとても難しくて、しかしこの「生きる」のカンパニーにあまりにもジャストフィットしていた事により「これが観たかったんだよ!!!」となった。
デスミュ、めちゃくちゃ惜しかったからなあ!!!

亞門演出の繊細で儚い感じは、村井先生の演技プランに物凄く合っていた。
そしてこにたんの演技プランもバッチシ噛み合っていた。素晴らしい。
そうなんだよな~、村井良大という役者はこれ位解像度が高い世界にいないと、周りの人達が作った世界の隙間を埋める立場になってしまってとても勿体無い。
自分が今まで観てきた中で、RENTとかチャーリーブラウンに並んでよかったし、その2作とは毛色が違うよさがあった。

村井先生が主演をやって「よかった!」という場合は、周りがトゲトゲしかったり飛び道具が多い中で「凡」を貫く美しさというか、地盤の世界の解像度を上げる役割を担っているのがとても美しいというか、あくまでもベースは村井良大の世界!!!となっているのが素晴らしい。

若手俳優の中で座長をやっているよりかは、村井先生よりもキャリアがあるキャスト陣の中にいる方が、本人のギラギラ度が強いというか、インプットアウトプットが輝いているように見える。
ただし番手が下がる場合、村井先生が作り出す世界の繊細さと同じ解像度で全体の世界が作られている所に乗せないと、やっぱり隙間埋め要員になってしまって勿体無い!のでどこかこうジャストフィットする場所……と思っていたらここにあった。そう!!!まさにこれ!!!と観ていて物凄くしっくり来た。
とにもかくにも、村井先生がめちゃくちゃやりやすく「そこに持ってきたのは素晴らしい!」と言える立ち位置だった。


シリアス・コミカル・ワガママ・クソデカ感情の全部乗せで、「村井先生のファンは観に行ってくれ!!!いや行くか、私が言わなくても行きますね!!!」というテンションになってしまった。
いや~いいな~~~。Wじゃないのもまたいい。村井先生のWを作るのめちゃくちゃ難しいのでシングルであそこのシーンを1人だけ4パターン戦い抜くのもまたいい(この話は長くなりそうなので割愛する)。

「どこ行くんですかーーーー!!!!」の村井先生、あまりにもよすぎたしフェードアウトしていくのが面白すぎて、許可が出ていたら大声で笑っていた。間が天才。
正直、光男の性格がめちゃくちゃ苦手なタイプなので、2幕途中で「話を聞け!!!!」と応援上映しかかってしまった。理性があってよかったね!!
嫌いで苦手なタイプの人間を、あそこまで「嫌いだ!!!」と思わせてくれるのはやはり役者の力量だと思うので、村井先生はとてもよい役者だし、しっくり来る作品に出ているのが観れてよかったな~!!と強く思った。

後は村井・唯月夫婦を見て「デスノートか!?」となったり、雷が鳴った後にこにたんが出てきて「フランケンか!?」となったりするのが楽しかったし、雷は結構盛大に鳴ってたけどあれはフランケンと言うか鳥髑髏のがんてっちゃんルームに近い雷だったな!!!なるほど映像担当が髑髏城もやられていた!!!ここが日生のがんてっちゃんルーム!!!!


今年頭にすっかり死んだ目のこにたんを見続けていたので、目が生き生きして表情豊なこにたんを久々に観た気がする。
というか小西小説家は強すぎないか……?股下が5メートルあったし、かっこいいしスマートだしオーラが柔らかくて、「好き!!」が全部つまっている。

小説家のポジションって、ある意味私達の夢的な存在と言うか「こういう立ち回りをしたい」みたいな願望の現れでもあるのかな~とも思うんだけど(中々都合がよい立ち位置だしファンタジーだなとも感じるし)、けれどこにたんが演じるでどこか俗世感がないので、丁度よく狂言回しでもあるし、ファンタジーでもあるし、というナイスバランスに感じた。


村井・小西の演技のバランスがよくて、2幕最後の方でしかやり取りが無いのがもったいないくらい、ずっと観ていたかった。
身長さのバランスも素晴らしすぎて、こにたんは村井先生を容易に殴れるけど、村井先生がこにたんを殴ろうとすると片手で止められてしまうの漫画かよ!?!?!?となってめちゃくちゃ面白かった。小西小説家回を観に行く方はご注目ください!!!!
言葉の温度感や、台詞のテンポ感の解釈が一緒なのかな~本当に聞いていて心地がよかったから、この2人もまた何か別の作品で共演してるのが観たいな~!!!


女性陣2役に関しては、私は自分が観た回の組み合わせで大正解だった。
村井先生と夫婦役のふうかちゃんは、こちらもまた作画バランスや感情のバランスがよくて、良くも悪くも「この夫にしてこの妻あり」の夫婦に感じられた。
ふうかちゃんの「一歩引く女」の演技、好きなんだよな~~~!!観てて苦しくなるけど。
May'nちゃんは舞台上では初めて観たけれど相変わらずめちゃくちゃ歌がうまい!!!!
田切とよという物語の中心でもありトリックスターでもあり…というのを考えるとナイス配役だな~。
いやーーーーでもこれ鹿賀さんを振り回すふうかちゃんもちょっと観たい奴だな……。
Wキャスト、罪が深いし、この「出てるけど役スイッチしますよ」システムに久々に当たったけど、やっぱり罪深いのであった。


渡辺勘治に関しては正直鹿賀さんも観てから何かを書きたい気がして、けれど今回は初日の1回しか観劇が出来ないので、一旦自分の中では伏せようかなーというか、役者の市村さんに対して今更どうこういう何かがないというか、圧巻されまくってしまった。
1幕でほぼほぼ存在感がなくボソボソ喋り&歌いで、本当に市村正親なのかわからない、その辺に歩いていそうなおじいちゃんがいた。びっくりした。
オーラも何もない、何を伝えたいのかがわからない、本当にただの老人。
それが、1幕ラストで感情を爆発させてきた後からのあの存在感が素晴らしすぎて、もう本当に何も言う事がない。役者って本当にすごいよ。
この役をミュージカルで演じるのってとても難しいと思うのだけれど、物凄くしっくりきていて、これが舞台の魔法か~~~と思わされる。

小説家に夜遊びに連れていかれるシーンがあまりにも華やかで、そして「私達が今失いかけてる日常」だとも感じた。
あの華やかで自由な世界に早く戻れたらいいのに、気が付いたら舞台上だけの夢の世界になってしまっているのでは…と思ったら、あんなに楽しいシーンなのに涙が流れて止まらなくなった。舞台の上が、羨ましかった。
やっぱり、亞門演出は不思議で、そして怖い。


そんな風に、この役について中々どうして饒舌にお喋りが出来ない代わりに、この作品を観た上で自分が思った事をつらつらと書き連ねようと思う。


作品を受けての自分の感情について

今年の3月以降、仕方ないのかもしれない、とは言えあまりにもライブパフォーマンスへの風当たりが強く、心がボロボロになっていた。
自分にとっては生きるために必要不可欠で、薬でもあるし酸素でもあるし親でもあるようなものを「なくても生きていける」と世の中が大声で話して、自分の世界から奪い取る事は余りにも辛く、精神も落ち着かなければ呼吸も上手く出来なくなり、このままだと人が死ぬぞ!?と思っていたら、自分にとって大切な人が本当に死んでしまった。

辛いとか苦しいとか悲しいとかでは語り切れない、ひたすらな「絶望」があった。
死そのものが辛かったというより、一生懸命に命の炎を燃やしていた人間の一生を、死でしか語れなくなっている世の中に絶望しきっていた。

それでも私は私なりに楽しくやって、自分も周りも励ましながら生きていたつもりだけれど、やっぱり2020年7月18日以降の私からは、感情と言葉が無くなってしまった様に感じた。

本来、こういう心を縛り付ける出来事があった時に、その心を救済するのもまた演劇なのだが、生で観劇する事が中々叶わない中で、ただひたすら、ゆっくりと時間をかけて暗闇の中に落ちていく感覚しかなかった。上への戻り方が、解らなくなっていた。

感情がない、言葉も出ない、何かを受け取っても上手くそれを表現する事が出来ない。
世の中にあふれる苦しい言葉を受け取らないために、心がどんどん外界をシャットアウトすればするほど、自分の中にある「受け取ったものを豊かに表現する」という誇れる才が色あせていき、自らをひたすらに生ける屍としていく。

生きてる心地がしない。今自分がなんで生きているのかが解らない。自分がいてもいなくても変わらないのではないだろうか。そんな事を沢山考えた。
自分は、それなりに面白い人間であるという自負を持ちながら生きていたが、言葉も感情も感受性も失ってしまった自分の価値を、自分で見いだせなくなってしまい、9月は本当に地獄を見た。
きつい、苦しい、どうやってここから脱したらよいのかが解らない。


私には演劇が必要なはずなのに、なんとなく今生きられている事が演劇の存在を否定しているんじゃないかとか、変わらずこんなにも世界が演劇を否定している事だとか、演劇の事を大切に思って信じてる人間を簡単に否定するような言葉だとか、それらがどんどんと自分の心を殺していっていた。

けれど、私はそれに気が付かないふりをしていたか、「平気だ」と思い込ませていたのだろう。
その強がりにより、演劇の事を誰よりも信じていたいはずだったのに、きっとどこかで信じられなくなってしまっていた。

その事に、やっと気がつく事が出来、自分のこの漠然とした苦しさは、自分が演劇を信じられなくなっている事から来ているものだった。


「生きる」の観劇の前にブリリアホールで「カチカチ山」と「浦島さん」を観劇したのだけれど、どうしても本調子ではなかった事と、作品の作り方が物凄く感情を揺さぶるタイプじゃなかったので、上手く色んなもののキャッチが出来なかった。
悔しかったし、辛くて堪らない。自分のアンテナが壊れているのを嫌でも自覚する。

このままどんな作品を観ても、うすぼんやりとしか心が動かなくなり、なんの感想も言えなくなってしまったらどうしたらいいんだろう。
そんな不安がよぎって、観劇に行くのが楽しみだけれど怖くもあった。
この世で一番安らぐ場所のはずなのに、足を運ぶのが怖い。そんな事があっていいはずないのに。

私は、観劇をしないと自分の感情が上手く自覚出来ないし、コントロール出来ないし、社会にコミットが出来ない。
演劇がある事で、自分を自分たらしめて、「社会に関わっている」という実感が湧く。
なので、演劇はどうしたって必要不可欠だ。
だから週に2本や3本観劇をするのが当たり前の人間が急に何ヶ月も観劇を奪われてしまったら、こうなってしまって当然なのだなあ、と。なんとなく生きてこれてる気がしたけれど、まったく生きてなかったんだな、とやっと実感が湧いた。


「生きる」を観劇して、やっと「私は客席に座っていたら当事者になれる・社会にコミット出来る」という大切な感覚を思い出したら、たったそれだけで受け入れられて認められて、自分の事を肯定出来た。
舞台上で起きる感情と、自分の感情をチューニングして共に笑ったり怒ったり泣いたり胸を痛めたりする事が出来た。心の底からよかったと思ったし、いつから我慢していたのか解らない程の涙が止まらなくなった。
やっと、楽になれた気がする。


私は、自分が生きているという事も、他者が生きているという事も肯定し続けていたい。
その為には劇場が、演劇が必要で、その事を誰よりも自分がしっかり胸に持ってこれからも生きて行かないとダメだと感じた。
何かをなし得る必要がある訳ではなくて、誰かがなし得たものを目撃して語り継ぐ事だって、十二分に当事者にはなれる。
一生懸命命の炎を燃やして作り上げられた何かを、きちんと目撃して、どんなに拙い言葉でもきちんと語って、私がその人達を生かして、その事で自分も生きていこうとハッキリ意識し直す事が出来た。


私は、とっても苦しかったし、というか現時点でも苦しくてたまらないんだなとよくよく解った。
それはもう無理をしないし我慢もしない。「やってらんねーな!」と大声で叫びながら生きていこうと思う。そうでないと、自分が生きている事を否定して辛くなっていく一方だから。


私は演劇に生かされている。
だから演劇を生かし続けないとならない。

その為には、演劇を生かすために命の炎を燃やしている人達が、自分の人生をかけて作り上げているものを、誠意を持って目撃して、キャッチ出来るだけキャッチをして、そして自分の中に溢れ出て来た言葉を、拙くても紡いでいきたい。

全ての事に負けたくないし、というか勝ち負けではなく全ての感情と同居しながら、これからも生き続けていきたい。
そしてそんな風に魂を燃やし続けて全うした自分の人生も、また誰かが語り継いでくれて、自分が生きていた事を肯定してくれるような人生を歩めたらいいなと思う。

人生は一度きり。
楽しまないと大損するかどうかはわからないけれど、でもやはり楽しい方がいいから、楽しく歩んで生きていこう。
それが「生きる」という事なのかな。


この舞台に限らずだけれど、どうか千秋楽まで無事に駆け抜けて、1人でも多くの人に届きますように。