夢は座席で大往生。

観る→考える→想う→書く。

【舞台】獣道一直線!!!

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2020年10月6日(火)~11月1日(日)
PARCO劇場

https://stage.parco.jp/program/judo/


感想ブログを更新していたつもりが1行も書いてなかった。
言いたい事が急に頭からこぼれ出まくってるので慌ててタイプをしている。
こうしてキーボードを叩いている間にも言葉がどんどんこぼれていっているので、とにかく今頭をよぎっているものをガンガンと書いていく。
そして勢いだけで書き終えた7000字強を、ろくに校閲もしないままインターネットにアップしているので、大幅なテコ入れは後日!!!!(するかもしれないししないかもしれない)

とても大事なこと

劇場・配信でこの後観劇予定の方は、ご自身の観劇が済んでからこのブログを読んでくれ!!!

ラストの展開について触れているのもそうなのだけど、私の解釈や私の受け取り方がかなり強く出た文章を書いているので、「そういうものなのか」と思われてしまうのも、ハナからその可能性だけになってしまうのも怖い。

物凄く可能性がある作品で、物凄く面白いからこそ、ご自身で観劇して、ご自身の中で何か一つでも感想を持ったり、もしくは何も持たなかったりしてから読んでもらえたらな、というリスペクトからくるエゴ!!!

新しいPARCO劇場こんにちは!

そういえば初めて行った。めちゃくちゃ綺麗になってた、びっくりした。
信じられない程狭かったロビーは(一部狭い所はあれど)広々していて、個数が異常に少ないトイレも下の階に作る事によって増えていた。
増えた結果、トイレに行くために1階降りて、トイレから戻るのに1階上がらないとならないので休憩時間は軽く登山なのだけれど、それでもトイレが増えたのは嬉しい。綺麗だったし。

客席はスタッフが注意せずともシーーンとしていて、私が観に行った回は誰もお喋りをしていなかった。
規制退場も、皆がスタッフの指示にしたがってゆっくり退場していて、それを観ただけで泣きそうになってしまった(涙腺と情緒が壊れている)。

私は座席数緩和の恩恵を受けた結果、何故か最前列を叩きだしてしまい「ヒー!!!」と思いながら着席し、自分の左右の人に「本当はいないはずだったところにお邪魔します」と心の中で挨拶をした。


この先、ネタバレと偏った解釈しかないから注意!!!!!


この池田成志がかっこいい!2020

最初から最後まで全部かっこよかった。
いや、私は別に成志さんのおたくという訳でもなく、熱心に追いかけてる訳でもなく、「なるしさんカッコイ~~~~!!!」って言いながら居たらヒーヒーいうタイプの典型的ライト層にもならないにわかなのですけども。
それでも脳みそが吹っ飛ぶくらいにかっこよかったし、自分が観たいような演技というか役と言うかアプローチが観れてめちゃくちゃ幸せだった。
細かくここがこうでどこが何でって書いてる余裕が今ないので(そんなタイミングでブログを書くな)、後日追記出来たら追記したい。

とにかく一幕を終えての感想が「池田成志が働いてるサイゼに週8で通いたい」だったので、もう少し人がガヤガヤ集まってもよくなったら有志でサイゼに集まるオフ会をして、順番を前後されまくりたい。

どの役もよかったのだけれど、個人的には最初のジャージと、後は二幕の白衣とスーツがやばすぎて、というかもうスーツになってからの最後、最後だよ、最後までが本当に困る。

本編ラストシーンで血糊の中に手を突っ込むくだりがあるのだけれど、一度ハケたその後、袖で手を拭いてるんでしょうね。でも血糊だから完全には落ち切らなくて、爪の間とかにうっすら赤い色が残ってる。
その赤い色を残したまま、カーテンコールで頭を下げる成志さんの姿を見たら頭のてっぺんから湯気が出るくらい興奮してしまい、なんだろうな「ビジュアルが良かった!!!」とかそういう直感的なものも確かにあるのだけれど、現実と虚構があの爪の間にあったというか、私が今見た時間は確かにフィクションかもしれないけれど、確かに存在したものだったというのを知らしめてくれていた気がして、それに信じられない位興奮した。
私が今生きて、この人達と同じ時間や空間を共有して、そしてここにいる事、た、た、たまらねーーーー!!!!とその場でひっくり返りそうになった。
赤く染まった指先と爪、今でも鮮明に思い出せるくらい32Kで脳みそのHDDに保存した。バックアップもしてある。
マジでいいものを見た。素晴らしかった。ナイス演出。


ちなみに、母親も観たいと言ってくれたので、チケットを手配して一緒に(別の席で)観に行ったのだが、終演後に「西荻に住んでる人、歌が上手いね~」と言ってくれたので嬉しかった。
母、NODAと第三舞台で観ているはずなのにGVGの「西荻窪だか荻窪に住んでて風車回して暴れてるおじさん」という記憶しかないらしい。
久々に母と一緒に(別の席だけど)観劇したけれど、楽しんで貰えたのでよかった。
私と母は感性が全く異なり、作品の感想を話し合うと大概噛み合わなくて私が発狂するので深い事は語らず、その日はおでんを食べて終わりにした。


物語全体とラストシーンについて物凄く勝手な解釈と感想

はい!!!ここから独断と偏見にまみれた感想書き散らしタイム入ります!!!!


大前提として、演劇という物は観る人によって捉え方がまったく異なるものだと思っている。
なので、同じ作品を観ても、誰一人として同じ感想を持たないのが当たり前というか、観た人間の数だけ感じる事があるのが演劇の面白さだと考えている。

以下の文章は、あくまでも「獣道一直線!!!」を観た私という一個人が感じた事や思った事、「そうだったらいいな」と思う事なので、私にとっては正解だし、でも誰かにとってはまるでまったくピンとこない話だし、みたいなそれ位誇大解釈甚だしい事を書きたいから、仰々しい前置きをしましたとさ。

最近のこのブログは「どこがよかった」とかじゃなくて「この作品を観て何を感じたか」のカウンセリングノートになってる気がする。


実在する事件が元になってるとか、なってないとかはどうでもよくて(いやどうでもよくないんだけど)、私が大事だと思ったのは「この作品を観てしまって共犯になってしまった事」だし、事実が何かじゃなくて「今そこにある自分の感情は紛れもない真実」というだけでいいかなと思っている。


とにかく、ずっと、今の自分を見せられている様だった。
人によっては苗田松子(で、以下統一する)はめちゃくちゃ悪い人に見えるのかな~とか、気味が悪いと思われるのかな~とか色々あるんだけど、元になった実在人物も含めて「どうでもよくね!?!?」と私はずっと考えている。

彼女がどういう人間だったから人々が魅了されたのか?なんてロジカルに説明が出来るのであれば人は魅了されない気がする。
言葉に説明できないけれどワーッ!と湧き上がってくるその感情は、理性ではどうにもならなくて、お金では買えなくて、他では埋められなくて、ただ惹かれて、傍にいたいと思ってしまう。一緒にいて辛いと感じる事もあるけれど、いないと成立がしない。

私にとっての演劇じゃん。と思った。
そして殺人は「共犯」と置き換えたら、とてもすんなりくる。


私にとってこの作品は、苗田松子が演劇で、関夫婦が社会や世間だった。
関夫婦の純粋な疑問や物差しが怖くて堪らなかったし、言語化しようとするところが本当に辛くて苦しくて、「き、嫌いだー!!!!」と思いながら観ていた。

作中で苗田は「自己肯定感が強いのでは」と言われていたけれど、パーソナリティー障害のメンヘラでは?と思いながら観ていた。
根っからの根っこから自己肯定感が強いのではなくて「自己肯定感が強い自分」を演じて誰かに与える
そしてそこに群がった人間達を振り回すのだが、そもそも根っこが不安定なメンヘラだから、次に行ってしまったり、人を殺めてしまうんじゃないのかなあと。

これは「誰かを熱狂的に魅了した作品が千秋楽を迎え、そしてまた次の作品に移り誰かを熱狂させて狂わせる」のに似てるなあと思った。
千秋楽を迎えたら、その時いた”自分”も、自分が魅了してた誰かも終わりを迎えるもんなあ。


で、世の中って奴はその結末と理由ばかり知りたがる。
関夫婦が本当にあれというかかなえちゃんのあのネットを使って知りたがるのが今自分が置かれてる環境においてちょっと地雷になりまくってる対象のそれと似通いすぎてて「ゲーッ!!!!!」となってしまったんだけど。
大事なのってそこじゃないじゃん、と、演劇を観てても思う。

「なんでそんなに同じもの何度も観るの?」とか「何がそんなに面白いの?」とか、そんな言葉では説明出来ない《感情》とか《体験》がそこにはあって、それは体験した事が無い人には伝えられないし、わかりっこない
何故ならわかろうとしないで、自分の知ってる言語に翻訳して教えてもらおうとしてるから。そりゃ一生理解出来ないんだわ。

劇場に通った時間も、苗田と一緒に過ごした時間も、当人がその時間を通して豊かになって”生きていた”のであれば、それは《騙された》とも《無駄だった》とも私は思わない。
大事なのは、この場合は結果ではなく過程であって、というかそれもまたひとつの結果というか。
世の中が知りたい「何が残ったんだ」みたいな部分とは、結果の着地点が違うから、話のしようがない。

本人達が理解しあって納得し合っていたものを、第三者が介入してきて、世の中の物差しをあてがって《理由》とか《真実》とかを作り上げて、本人達の意向とは違う形で言葉を広めようとする。しかもそれを正義だと思いながら。
当人同士でいくら納得しあってても、それを世の中が観測した瞬間《罪》や《無意味》になって、納得しあってた事実さえも否定されてしまうの、あまりにも辛すぎる。
あれもこれもそれも、「あなたのポジティブな解釈でしょ?」と言われたら確かにそれまでだけど、でもそう言われるまでは自分の中では”そう”だったし、そうだと信じたいし、そう主張する事は許されると私は思う。それでも世の中は否定をしてくる。

う、う、うるせーーーー!!!!!!!!
理解しようとしてないくせに、お前の言語で納得いくように勝手にお話を作るなー!!!!!!!!!!!!

と、全部にキレてしまう。
から、私はあのラストは至極納得だったし、スカっとしたし、わくわくした。
罪悪感が少しだけあるけど、それ以上に覚悟がある。
演劇と一緒に生きて、演劇と共犯になって一緒に生き抜くしかない覚悟。
そう、そうだね、《共犯》になりたいんじゃないのかな。私も、あの人達も。


最後に流れてくる沢山のちくわ達は、これから私に出会う演劇作品だったらいいなあと思っている。
苗田が演劇という概念そのもの、関が世間や社会に蔓延る理不尽な何かだとしたら、ちくわは作品。
生きてる中で悲しい事も辛い事も理不尽な事もあるけれど、それを粉々に砕いて虚構の世界のちくわを作る。
そして現実世界の私がそのちくわを口にしたら、腹が満たされ心が潤う。
ああ、そう、この練りもの工場は、私にとっての劇場なんだよなあ。と思って、その感覚を体に落とし込んだ後に家で泣いた。

今年は本当に色んな事があった。
苦しい事も辛い事も、咀嚼しきれない位いっぺんに起きてしまって訳が解らなくなってしまったし、怒りなのか絶望なのか解らない感情に襲われまくってしまったけれど。
「俺達がこれからもちくわ作り続けてやるよ!!!!」という気概を感じた(気がした)。

私が感じるやるせなさとか、辛さとか、苦しさとか、疑問を、きっとこの人達はこれからも演劇にして私に与えてくれるんだろうなあと思った。
だから私はこの人達とずっと共犯でいたい。覚悟と誠意を持って。
その為に誰かを殺める事は出来ないけれど、出て来たちくわは美味しく食べようと思う。

なので、あのラストシーンを「気持ち悪い!」「後味悪い!!」と感じた人は一定数いるとは思うんだけど私にとっては「うまそう、腹減った」だった。実際に帰りにおでんを食べて帰った。
最後に流れてくる沢山のちくわが、劇場で手に取るフライヤー束のようにしか見えなかった。
今度はどういうちくわが流れてきて、どういうちくわが食べれるんだろう、そのちくわを口に含んだ時は、きっと私は多幸感でいっぱいで、自分が遭った嫌な事に関しても「この材料があったからこのちくわが食べられてるなあ!」と思うんじゃないかなあ。そういう性格だし。

ラストの池手さん(池田成志)が美しくて発狂するほど好きだと感じて大興奮したのは、私が「楽しい方が正義」だという論者で、今度あそこからはどんなちくわが生まれるんだろう!?とワクワクしたからかもしれない。
凄く、あそこのシーンの池手さんの表情が、なんとも言えないけど大好きな表情で、新しい作品の台本を手に取ってる役者ってこういう感じかな~とかそういう風に自分の中には落とし込んだ。


腸が煮えくり返っても、人の事は殺さない方がいい(と、私は思うし法律でも定められている)。
けれど、虚構の中でならいくらだってやる事が出来る。
他人を殺す事も、自分を殺す事も、世界を破壊する事も、何もかも。

そうやって虚構の世界で暴れ散らかす事が出来るからこそ、現実とより一層向き合って元気に生きて行く事が出来るので、それはそれこれはこれだし、言いたい事はそうやって処理して行くのがいいんじゃないのかな。
自分の中で抱え込んである日いきなり現実世界で暴れ散らかすよりも、よっぽど健康的だ。
めちゃくちゃストレス発散してる作品だな~~!!と感じたし、その姿に生きる気力を貰って背中を押された。素晴らしい事だ。
これで私は明日からも現実世界で、誰の事も棒で殴らなくて済む。ありがてー!!!

不要不急の役者3人が、脚本も演出も糧にして、観客を巻き込んで、自分達が大切なものを守って、そしてこれからも生きていくという姿。
私が観たい「演劇がある世界」じゃん!!!と感じたし、それを演劇で見せられたのが一番の入れ子構造すぎてゾクゾクしたし、最後劇作家自らがあの役割を担ってるのも含めて「変態か!!!大好きだ!!!」と心から思った。本当に凄かった。いいものを観た。

強制的に当事者にさせられる「観劇」というシステム

って、本当に偉大だなと思った。
今の世の中は《傍観者》が多すぎるけれど、観劇は傍観ではなく参加だ。と、私は思っている。
座席に座って何かを目撃してしまった瞬間に、見て見ぬふりが出来なくなるというか、「私その話知りませんでした」と言えなくなってしまう。
だって、知ってしまったから。

そうなると「こういう意見を持ちました」とか「あの登場人物に共感しました」とか「あいつが嫌いでした」とか、はたまた「何も感じませんでした」とか、何かしらの感想が出てくる。それが物凄く大事だと思う。

演劇は、そもそも社会に対するアンチテーゼが含まれているものも多くあるし、娯楽だとしてもその作品が作られた時代の社会情勢はかなり反映されている。
それに対して「あなたは何を思いましたか?」と問いかけてくるのは、私たちを傍観者ではなく当事者にしてくれる、大変偉大で画期的なシステムだよなあ。

誰に感情を移入をしたか、どこのシーンが一番印象強かったか、何に笑えて何に泣けたか、何がひっかかったか。
それらは千差万別で、誰が観ても異なるけれど、何か引っかかるポイントと言うのは、自分自身や自分の体験を投影する事が多い

ちょっと話は逸れるんだけど、人が誰かの特定の行動に対してやたら執着して注意をしてしまったり、特定の言動に対して「あなたはこういう人だから」という判断をして強く当たるのは、自分自身でそういう面がコンプレックスになっているから、他人のそういう言動に対して過剰反応して「そういう人に違いない」と怒ってしまう、みたいな話を聞いて、へーーー!!!確かにそうかも!!!!とデカい声を出して頷いた。

と、いう事は、演劇で誰かの人生なり世界観を俯瞰で観ているつもりでも、その中で「こいつなんなんだ!!!」と気になる何かは、自分にも当てはまるものがきっとあるはずで。
「これが気になった」という点を口にするだけでも、自分が見えてくる事もあれば、自分の思想や価値観が見えてくる部分がかなりある。

それが「社会にコミットする」という事なんではないのかな~~と私は考えているので、演劇がないと私は社会にコミットが出来なくなるし、不要不急なんかじゃないんだよなあ!!!!!!と声高らかに宣言したい訳でして。

ステイホームの俳優は家族にとってはお荷物だ


で、ゲラゲラと笑った後に「うるせー!!!」とキレたくらい、3月以降の私はストレスがたまりまくっている。

「不要不急」ってなんだろうとずっと考えていて、自分にとっては人生にも生活にも必要なものが、勝手に他人とか世間の物差しで不要だ不要だと言われ続けて半年以上生活していたら心が完全に荒んでしまい、センシティブなワードにすぐ反応して棒を振り回す人類になってしまった。
私にとっての生活必需品であり生命維持装置を勝手に不要不要と言うな!!!!!!!!!!!!!!!!!!と、叫び散らかしてる訳なんですけども。

結局それって「自分は必要だ」と思い込みたい世間からの「でもあなた達は」って呪いでしかないよなあ。
誰が不要にしてるのかって世の中がですよって思った訳で。
誰かの物差しで計られて決められたらたまったもんじゃねーよな!!!と改めて思ったりしたわけでしたとさ。


なので、私はこの作品を観てこういう風に考えてこういう風にスカッとしてこういう風に楽しかったです!!!という事をまとめた。
この気持ちは誰にも否定出来ないし、させない。

けれど、この気持ちとは別の感想や感情を抱く事もまた自由で、私はそれを否定出来ないししないので、皆がそれぞれにこの作品を観た感想や言葉を発してくれたら素敵だなと思う。

なので、時期が来たらサイゼに集まりましょう。
順番前後されながら、注文したちくわがテーブルに届くのを待ちつつ…。